「華宵 〜機甲部隊、3度目の春に〜」(先行者ゲーム)





「懺悔も後悔も、死人には届かんぞ」
 背後の闇から、声が響いた。
 険のある語句のわりには、不思議と穏やかな口調だった。声、それからやや遅れて草を踏む足音、いくぶん遅れがちにあらわれる気配。
「止めておけ。無駄なことだ」
「…………」
 その声の主が誰であるのかを、僕は知っていた。
 その唐突な登場も、口を開けばついてでる警句も。僕にとっては馴染み深いなどという言葉では到底足りないそれは、いかにもその人のものだ。振り返るまでもなくわかっている。そこにいるのは、
「……わかっております、大尉」
 僕はいらえを返した。
「そんなことはわかっています。僕はただ、物思いにふけっていただけで――これはただの、個人的な感慨ですから」
「ふん」
 応答はにべもなく、鼻で笑う音。
 それからかちかちと打火機の石を削る音、一拍おいて長い吐息の音が続く。いつものように煙草を吸いはじめたのだろう。だが、僕はその人を認識したこの瞬間でさえ、そちらへ振り返ることはしなかった。僕はただ、夜露の降りはじめた草の上に膝を抱えて座り込んだまま、ぼんやりと何もない宙を見つめていた。
 目の前には、ひたすらに夜の闇。
 東域の黄砂が舞い上がる初春、空に浮かぶ半欠けの月は紅い。
 冷たい夜気の中にはかすかに甘く、花の馨りが混じっている。
 僕がいるのは、ひとりでいることを選んだのは、そんな夜だった。
 それなのに、
「どうした。貴様は背中でしか口がきけんのか」
 ワン大尉は、僕の孤独を許さなかった。
「だとすると、貴様もずいぶんと偉くなったものだな」
「……いけませんか」
「あん?」
 口ごたえとは心外、とばかりにワン大尉。
 僕は背を向けたままで言い返す。
「僕がひとりでふてくされていては、いけませんか。こうして人の目につかない場所を選んで、誰にも迷惑をかけずに勝手にやっているつもりなのですが。どうか放っといていただきたいです。そのうちに戻りますから」
 愚痴をこぼすつもりも、当たり散らすつもりもなかった。
 そうだ。僕にはもう、言葉など残っていない。涙ですらとうに流し尽くしている。めちゃくちゃに拭った頬は汗と泥と機械油にまみれ、顔にはもはやいかなる表情を浮かべることもできない。いくら反発を試みたところで、声に力はなかった。
「今は、ひとりに……させていただけませんか」
「駄目だな」
 だが、ワン大尉は一言のもとに僕の意見を却下した。
「何故ですか」
「ふん、そんなことすらわからんのか。この馬鹿めが」
 げはあ、と溜め息を吐き捨てるように盛大に煙草をふかし、
「俺が見咎めた。だから失格だ!」
 ワン大尉はそう、いつもの怒声で断言したのだった。
「し、……」
 まさかの言葉。
 なんという言い草なのか。この場に及んでそれなのか。
 失格――それは懐かしくもあり、もう聞くに飽きた言葉だった。
 これまでにどれほど聞かされたことだろう。基礎訓練で音をあげそうになったとき、先行者をあやつりそこなったとき、任務をしくじりそうになったとき。何をやっている、そんなことでは失格だ――ワン大尉は口癖のようにそう言って僕らを叱りつけた。その言葉で僕らを奮起させ、鍛えようとしていたのだろう。
 だが、その言葉が今、どうして適切だというのか。
「……失格、ですか」
「そうだとも」
 また鼻息をはさみ、
「よく聞けこの豚足が。いいか、貴様はひとりの人間である前に、もはやすでに戦士なのだ。中華陸軍機甲部隊の一戦力に換算される材木の一本なのだ。その貴様ごときに、上官たるこの俺の前でふてくされる自由などあるものか。たわけるなよ小僧、そんなことでは兵士失格だ」
「そんな……」
「そんなもこんなもへったくれあるか。この馬鹿の、大馬鹿野郎が」
 ワン大尉は言いたい放題罵倒した。だが、それはいくらなんでもむちゃくちゃな論理だ。こちらはみずから人目につかないところに逃げ込んでいるのだ。それをハゲタカのように目ざとく見つけ、わざわざ追いかけて説教しにきたのはワン大尉、あなたの方では――と、
「…………」
 僕は言いかけ、
 言いかけて咽喉元まででかかったその言葉を、飲み込んだ。
 まさか、そんなことがあろうとは。そう、確かにこんなときに口ごたえなどは全く心外だ。なにせ万里の長城がひっくりかえってもありえないと思っていたことが、どうやら今、僕の目の前で起こっているらしいのだから。
「後悔も感傷も、おのれの寝床で人知れずするがいい」
 心配、されているというのに。
 他でもない、あの、ワン大尉に。
「むろん、もはや貴様は寝不足になることすら許されんがな。おお、そうだ、喜ぶがいいぞ。機甲部隊は明日も明日とて出撃だ。それも、どうも軍部の頭の黒い猿どももようやく俺たちを評価しはじめたらしくてな」
 もっとも、はたしてどこまでが韜晦でどこからが本気なのかは怪しいところなのかもしれない。いつの間にやら目的と手段をそっくり入れ替えている感もある。今やワン大尉は拳を振り上げ、僕のことなどお構いなしに、高らかに演説を謳いあげている。
「紙切れ一枚でぬかしやがった。明日からは尻の毛もブッ飛ぶ華北の最前線に配置換えだとな! ふん、椅子磨きに腐心しすぎて杖なくしては立ち上がることもおぼつかんジジイどもが、何をいまさらか! 笑わせ……」
「大尉」
「あん?」
 そこでふと。
 僕は立ち上がり、ワン大尉の演説をさえぎった。
「どうした。貴様も吸うのか?」
「いえ、そうではなく――」
 振り向き、そっと掲げるように右の手を差し出す。
 そこに。
 それは舞い落ちてきた。
 どこからともなくはらはらと、夜のまぼろしのように。
「雪……?」
 まさにそれは雪とみまがうほどに白く――闇の中で透き通るほどに白くあった。しかし手のひらに触れてもそれは消えず、たしかなかたちをとどめていた。
 それは、ひとひらの花びらだった。
「…………」
 花。
 それは、
「――憶えておられますか、大尉。二年前の春のことを」
「…………」
 今度はワン大尉が沈黙する。黙って、ただ紫煙をくゆらすのみ。しかしその仕草で、僕は話を続けることを許されたように思えた。
 それで僕は、記憶を言葉に変える。
「あれは、僕にとっては、記念すべき日でした」
 長い間思い出すこともなかった、その必要もなかった、在りし日の出来事。どこかにしまい込んだまま置き忘れ、繰り返す日々の中ではついぞ顧みることもなかった、あの季節の記憶。
 思い出だ。
「なにせ入隊したその日に、先輩兵士と大喧嘩ですからね」
 春のことだった。
 今にして思えば、原因は笑えるほどくだらないものだった。あの若いのの箸の持ち方が気に食わない――しかし古参連中にとって新兵いびりの口実など、そんな因縁で充分だったのだろう。
「それでも最初は数人の睨み合いだったのですが、新兵の血気盛んな奴がついに手を出してしまいまして……いや、僕のことですが。それで後はなし崩しに総員入り乱れての大乱闘に」
「ふむ」
「馬鹿な話です。が、あのときはそういう蛮勇こそが勇気であると思っていました。たぶん僕だけじゃなく、新兵は皆そうだったのでしょうけど。ともあれ……あのとき僕が最初に殴りかかって、それから最後の最後まで、互いに顔面がボコボコになるまで殴りあった先輩兵士がいて――それが、」
 思い出。
「それが、彼でした」
 掴もうとした。だが花びらは僕の体温を厭うように指の間をすり抜け、音もなくどこかへと滑り落ちてしまった。
 僕はようやく、ワン大尉へと向き直ることをした。
「そしてそれをついに止めに入ったのがワン大尉、貴方でしたね――そう、僕たちふたりをまとめて拳骨でブッ飛ばして」
「……憶えておらんな」
「あれは本当に止めに入られたのですか? 乱入ではなくて」
「記憶にないな」
 対峙する、黒眼鏡の奥の表情は読めない。
 ワン大尉は本当にあの日の出来事を憶えてはいないのだろうか。それともそらとぼけているだけなのか。どちらともとれる。誰よりも軍歴の長い大尉にとって、喧嘩沙汰など記憶するにも値しない茶飯事であろう。しかしまた反面、そういう細かいことを意外にも誰よりもさとく記憶しているのがこのワン大尉という人物の特性でもある。今もって、僕はこの人物のことを理解できているかどうか自信がないのだが、
「……それで」
「え、」
「それで、どうなったのだ」
 しかし、ワン大尉はまだ話の先を求めた。
 もっとも、ここまで僕の話を黙って聞いておいてさらにそれを尋ねるのは、少し意地が悪いと言えるだろう。ワン大尉はみなまで僕に言わせようという心算らしいが。
 いや。
 いいだろう、構わない。ここまで話せばもはや皿まで、だ。
「あとは周知のとおりです。……友達になりましたよ」
 当然のことだ。
 必然、とさえ言えるだろう。男同士、互いに倒れるまで拳をつき合わせてしまえば、もう後は朋友になるくらいしか道は残っていまい。
「いえ、もちろんそれだけじゃありません。この今の僕があるのは、すべて彼のおかげです。ここで生きていくために必要なことは、なんでも彼から教わりました。混戦を切り抜けるための中華ドリルの使い方も、野営で硬いシュラフを丸めて眠る方法も、上官に見つからないように訓練をサボる手口も――全部、ぜんぶ彼から教わりました。彼は僕にとっての先生であり、兄であり……なにより――」
 さらに思えばあの大喧嘩さえ、もともと仕組まれたきっかけだったのかもしれない。操縦席に座れば誰よりも見事に先行者を駆ってみせるくせに、そういうところだけは実に不器用だった彼なりの、それは新兵への気づかいと歓迎ではなかったのか。
 すべては過去だ。今となっては、本当のことなどわかりはしない。
 だが、
「彼は、僕の友達でした」
 そう信じるだけだ。
「ふむ……そうか」
 ワン大尉は否定も肯定もしなかった。
 ただ、ずいぶんと短くなった咥え煙草を口から離し、
「そういうこともあったかもしれんな」
 おもむろに夜空を仰いだ。
 そして、
「あいつは、いいパイロットだった」
 ぽつりとつぶやくように言った。
 それは僕に向けられたものではなく、ワン大尉が自身の記憶を確認せんがために発した言葉ではなかったか。過去を言葉でしか語ることのできない人間が、現在においてそう信じるだけの、信じるための言葉。
「…………」
 だからこそただ、僕も空を見上げた。
 猫の目のように細く尖った月は、すでに中天を過ぎた。大陸の三月、まだ夜空に星は少ない。夜はどこまでも静かに沈んでいる。闇の中にはぬるい風がどこからともなく吹き、またゆるやかに流れる。ただよう甘い馨りは芽吹いたばかりの草木の吐息、そして季節を待ちかねた花のさきがけか。
 そして、僕はもう隠すことができない。この世界の夜気が、どうしようもなくその存在を感じさせる。僕の汚れた頬に再びつたうそれは、
 涙だ。
「俺は、忘れた。……だが貴様が憶えているというのなら、貴様は忘れるな」
 ワン大尉は背を向けた。
「明日からは、貴様がエースだ。先に逝った者に笑われるような戦いは、もうするな。あいつがいなくなっても何も変わらないと、誰もにそう言わせるように強くなれ」
「は……い」
「気を込めて、胸を張って、せいぜい腰を振るうがいい」
 用は済んだとばかりに僕を残して、紫煙をまとわりつかせたまま営舎のほうへと歩いてゆく。
「ふん……おッ死ぬと途端にどいつもこいつも皆いい奴にされちまうが、俺はそんな平等など糞くらえだ。いいか、あらかじめ言っておくぞ。貴様が鬼籍に名を連ねたところで、俺は貴様のことなんぞ何ひとつ褒めてやらんからな。いいな、おまえは――」
 生き残れ。
 出撃のたびに何度も何度も聞かされたその言葉を今もまた言い残して、ワン大尉は立ち去った。夜は再び静けさを取り戻し、闇はまた闇へと落ちてゆく。後にはただ僕だけが残される。
 だが、これは今度こそ僕にあたえられた孤独であり、静寂なのだろう。
 もう、何も、偽ることはない。
 僕はそのまま、涙があふれるにまかせて泣いた。
 嗚咽も、震えも、そしてこの想いも――あるがままにして僕は泣いた。すべてをこれで終わりにするために。この胸に刻みつけて、決して忘れないために。かるがるしく思い出して同じ悲しみを繰り返さないために。先に逝ってしまった彼のために。まだここより先へと行く、自分のために。
「……再、見……」
 確かに来たるべき季節を前にして、最後の涙を流しながら。
 僕は別れと、誓いの言葉を口にした。

(了)


2003/03/14 (10KB)
Original : シルチョフ兄弟社
Story : Sukapon-Sukaponew