「娘、猫、森、塔、本、あるいは魔法の話。」(つぐな&今宵)





 その森は昔々の大昔、太古よりもはるかに昔、原初、まだ幼かったこの星にこの世界が作られたとき、そのときに生まれ、それから現在に至るまでそこに在り、そしておそらくこの往く先もずっとそこに在り続けるであろう、そういう森だ。
 深く、広く、大きく、暗く。
 その森には無数の物語があり、名前があり、伝説があり、また生命がある。それらすべてを語るには、人の子の言葉などでは到底追いつかない。しかし、まあ、昨今の人間のあいだではもっぱらその森の奥には伝説の塔があり、そこには伝説の財宝が眠っているとかどうとか、どうやらそういうことになっているらしい。人間の考えることは何時の世もそれほど変わりなく、実にわかりやすくて結構だ。

 それでは、少女と猫である。

「ねえ、今宵」
「…………」
 返事がない。
「今宵ってば」
「…………」
 ただの猫のようだ。
「むううっ」
 少女はぷうっと頬をふくらませて、
「またそうやってわたしのこと無視するー。うそ、わかってるんだもんね。いつだって今宵のそれはフリだもんね。わかってるんだから、聞こえてるんでしょホントは。ねえ、今宵、こよい、こよいこよいこよいこよいってば、こ、よ、いーっ!」
「……なンだよ煩ェな」
 真ッ黒々の塊が、おそろしく倦怠げに振り向いた。
「ひとさまの名前を気安く連呼するなこの阿呆が」
 猫は今宵である。
 もとい、その猫は『今宵』という名の猫である。
 今宵は性格が悪い。よって口が悪い。さらに目付きも悪い。おまけに機嫌もたいてい悪い。今宵は黒猫で、それも頭のてっぺんから尻尾の先まで黒一色の黒猫で、しかも人語を解する『ふたまたぎ』、つまり魔導に因する猫で、ついでに少女の相棒である。それなのに何故だか『使い魔』呼ばわりするとかなりの勢いで怒ったりする。微妙なお年頃なのである――かどうかはわからないが、とにかく今宵は一匹の黒猫である。
 今宵は後ろの少女をじろりと睨みつけ、
「ああ煩ェ、尻尾に響く」
「ほーらね、やっぱり聞こえてたんじゃないの」
 少女はえっへん、鼻を反らして勝ち誇る。
「ふん」
 しかし今宵は鼻を鳴らすと、
「何用だ」
「え?」
「何の用だ」
「よ、よう?」
 じろりと睨む。
「だァら、わざわざそこまで騒ぎ立てて俺を呼んだ用件は一体何だと訊いている」
「え、や、だから、それは、その」
「言ってみろ、聞いてやる」
「あ、あ、あの、えええと、ええとね……」
 今宵の視線は魂すら射抜くような厳しさを伴っており、少女はますますしどろもどろになる。どうやら今宵を呼ぶことに夢中になりすぎて、そもそも何の話があって今宵を呼んだのかなどすっぱりと念頭から消し去っていたらしい。本末転倒、そして後の祭りとはこのことか。
 やがて、少女はがっくりと肩を落とした。
「……わすれた……」
「馬鹿が」
 今宵は一言で切って捨てた。
 そのうえ、猫にそこまでの表現が可能なのかと感心させられるほどの、そこはかとない侮蔑を湛えた目を今宵はやすやすとやってのけた。しかしそこまでされると少女とて黙ってはいられない。
「……だって」
「だって何だ」
 胸の前で手をぎゅっと、ぐー。
「だって今宵がなかなか振り向いてくれないんだもん。今宵が悪いんだもん」
「言うに事欠いて今度は俺の所為かよ」
「あっ、そーだ思い出した思い出したよ!」
「聞けよ人の話」
「いま思い出したんだもん」
「……で、何だ」
「えっとねえ、」
 笑っている。
 今にも泣き出しそうだった少女は急旋回のアクロバット飛行に成功し、こぼれそうなほどの笑顔を浮かべている。立ち直りはおきあがりこぼしより早い。それはこの少女の持っている、三つある特技のうちの一つだ。ちなみにもう一つは時計を合わせることで、あと一つが何なのかはまだ当の本人も気づいていない。ともあれ、猫が今宵であるように、この少女にも名前がある。
 少女はつぐなである。
 彼女は『つぐな』という名の少女である。
 つぐなは大事なものをよく無くすし、歳の割にはずいぶん泣き虫だし、いちばん上の棚にはまだ手が届かない。しかしこれでもつぐなは魔法使いである。もとい、魔法使い『見習い』である。これでも魔道を志す者のはしくれであり、黒字に赤の縁取りがなされたその服は本物の魔術師用の服『常衣』であり、そう言われてみればたしかにそう、黒猫を従えているわけだ。つぐなはこれでも魔法使い見習いで、これでも今宵の主人である。
 つぐなは満面の笑みで言った。
「まだ着かないの、って訊こうとしたの」
「けッ」
 聞いて損した、とばかりに目を反らし、四本足はさっさと歩き出した。
「わ、待ってよっ」
 あわてて後を追う二本の足。
 だがここはもとより道なき道の森の中、下草と落葉の陰には木の根やでこぼこが隠れている。今宵は悠々と先に進んでいくが、つぐなは急くほどにつまづきそうになり、一匹と一人の距離は一向に縮まらない。こんなとき、どうして自分は猫に生まれつかなかったのだろう、とつぐなは真剣に悔やむのである。
「ちょ、ちょと歩くの速いよ今宵、ねえってば」
「――着くかどうか」
「え、」
 前を行く黒の塊がふいに歩みを止める。尻尾だけがゆらゆらと揺れている。
「今宵?」
「もし、俺が道を見失っていたら、おまえはどうする」
「え……?」
 あたりの温度が急に二三度、下がった気がした。
 それを気の所為にしたいつぐなは、襟元を合わせるように不安を繕おうとする。
「また、うそ。そんなことないもん」
「冗談だと思うのか」
「だまされないもんね、だって――」
「だって?」
「だって今宵は道を間違えたり、しないも……ん」
 言って、しまった。
「だから?」
 だから何なのか。
「だから……」
 そう、それ以上続けるべき言葉を、つぐなは持ち得なかった。何故なら、自分はただその真ッ黒い背中を追っていればいいと思っていたから。それで目的地に辿り着けるものだと信じて、何一つ疑っていなかったから。
「今、宵……」
「何度も言わせるな」
 魔法使いにあるまじきこと。
 それは、おのれの見たいものしか見ないこと。
「まさかおまえ、猫ごときの道案内で本当にどうにかなると思っていたのか? 大地の髯たる『ラプンツェル』のしろしめす森に、外界の律が通用するなどと誰が教えた? その程度の知識と覚悟でこの異界に足を踏み入れたのか?」
 今宵は容赦しなかった。
「う、く……」
 つぐなの目から、ぼろぼろと涙の粒がこぼれ落ちた。
 それでも、今宵は容赦しなかった。
「その程度の想いで、おまえは魔法使いになろうとしているのか?」
「………っ!」
 涙でぐしょぐしょべたべたになって、みっともなくて猫にすら見せられないような顔。
 その顔を、それでもつぐなは上げた。
 何に代えても譲れない最後の矜持、そう、これだけは言っておかねばなるまい。
 この世界に数多といるであろう魔法使い見習いの一人残らずすべてがそうであるように、つぐなもまた、いつの日か大魔法使いになることを心の底の底から望んでやまない魔法使い見習いの一人である。
 つぐなの心から、ぼろぼろと甘い考えが剥がれ落ちた。
「……もん」
「あー?」
 聞こえねェな、と今宵。
「行くもん」
 誰かが言った。
 想いは言葉にするといい。言葉にすれば、それは真実になる。
「わたしは探すもん。今宵がいなくても、わたしはひとりでも探すもん。見つかるまで探すもん。『塔』を見つけるまでは絶対に、ぜったいに帰らないんだもん!」
 誓いの言葉。
「わたしは、絶対、大魔法使いになるんだからっ!」
 つぐなは言った。
 それは自分に向けての言葉であり、今宵に向けての言葉でもあり、世界に向けてのものでもある。無論、それはこの瞬間にはまだただの言葉であり、声はこだまするでもなく森の木々に吸い込まれて消えていき、代わりに葉ずれの音がさわさわと響き、遠くで何かの鳥が低い声で鳴き、木々の間にあるわずかな空には夕暮れの赤がのぞいており、今宵は目を瞑り、ヒゲをぴくんと震わせるだけだ。
 ややあった。
 黒猫は、言った。
「……たぶん先はまだ長ェ。日が暮れるまで、歩くぞ」
「いっしょに?」
「当ッたり前だろが」
 今宵はそういって、そっとつぐなの横に並んでくれた。
「行くぜ」
「――うんっ」
 頬に涙のあとが残っていても、つぐなは元気に頷いた。つぐなの成分は立ち直りが早いことと、時計を合わせることと、あと何か。つぐなは大事なものをよく無くすし、歳の割にはずいぶん泣き虫だし、いちばん上の棚にはまだ手が届かないし、足りないものはたくさんあるけれど、誰よりも頼りになる相棒が傍にいる。
「……でもね、もうすぐだよ、きっと。そんな気がするの」
「おまえの勘などアテになるか」
「あ、ひっどーい」
 森の奥へ、奥へ、奥へと。
 一人と一匹は、歩いてゆく。

 でも割と早く日が暮れた。

「こ、こ、今宵、まっくらまっくら!」
 慌てふためく少女の、それは影姿。
 たしかにいつしか日は没した。夜の闇よりもなお濃い色の闇がどこからともなく忍び寄り、木々の隙間をじわじわと閉ざしていく。森の夜はばらばらのものをひとつの生き物のように繋ぎ合わせ、あるものすべてをその中に溶かし込んでしまうのだ。
「どうしよう、日が暮れちゃったよ、夜だよう!」
「喚くな」
「あ、あれ? ねえ今宵どこ? どこにいるの!?」
 きょろきょろしても、見えるのは暗闇ばかり。
「うしろ? まえ? わー今宵まっくろだからどこにいるのかわかんないよー!」
「足元だ。いいから落ち着け」
 あわてふためくつぐなとは対照的に、今宵は平然としたものだ。あたりまえである。一日の半分しか物を見る目を持たない人間などとは違ってこちとらはまったき猫の中の猫、夜の眷属なのだ。今宵には昼も夜も等価でしかない。
 つぐなの脚を尻尾でぺしりとはたき、
「まだそんなには暗くねェよ」
「なんにも見えないよー!」
「そうかよ。ならどーせ同じだ、目ェ閉じてみな」
「目閉じるの? そしたらどうなるの?」
「いいからやれ」
「う、うん」
 視界がきかないのがそれほど心細いのか、つぐなはやけに素直に従った。
「閉じたー」
「どうよ」
「……おんなじ。まっくら!」
「だろな。――ッと、まだそのまま居れ」
 今宵は神妙な口調でささやいた。
「同じだと言ったな。そうだ、この世に訪れる夜の闇も、おまえがまぶたを閉じてみる闇も、本質的には何も違わない。この外の世界に在るものはすべて、おまえの裡にも在るものだ」
「……うん」
 闇。
 しかしつぐなが目を閉じて視るこの闇が、つぐなを取り囲む森の闇にもまた繋がっているとするならば。それなら怖くない。ここも、そこも、所詮は形而上だ。所詮はつぐなの続きなのだから。
「もう教えた筈だ。おのれを征服することは、居ながらにして世界を征服することだ」
「わかった」
「……目ェ、開けな」
 ぱちり。
「あれ?」
 あたりには夜の領域が迫っている。だが、
「見える……よ」
 だが、今のつぐなには見分けることができた。
 闇は闇でも、まだすべてが暗がりに押し包まれたわけではない。いびつな木々のかたちも、あるかなしかの道の輪郭も、そこに立っている自分の姿も、足元で目付きの悪い目を光らせる今宵の姿も。西の端に太陽が没しても、本当の夜の訪れまでにはまだ幾許かの猶予があるのだ。
「そっか」
 つぐなは頷いた。
「まだ、大丈夫だね」
「そう間も無ェがな。……火ィ、熾しな。どのみち今夜はもう動かねェ方がいいだろうよ」
「うん」
 つぐなは背負い袋を下ろし、ごそごそと夜営の準備を始めた。
 それを眺めながら今宵は、そっと嘆息した。
 思う。猫が人間に対し、もしくは従者が主人に対し、いくらなんでも進言のしすぎではないのか。しかし放っておけばそれはそれで、この少女は何をしでかすか分からない。実に、実に危険極まりない。よって不本意極まりないが、彼女の最も身近にいる者――つまり今宵が口出しするしかない。こんなとき、どうして自分は普通の猫に生まれつかなかったのだろう、と今宵は真剣に悔やむのである。
「ッたく――」
「え、なに? 今宵」
「ンでもねーよ。出来たのか」
「もうちょと」
 と、そこで。
 改めて今宵はつぐなが何をしているのかに気づいたのだった。
「……おい」
「んー?」
「何やってんだ」
「えー、だから、焚き火の用意」
 言うつぐなはあたりをごそごそやって、落ちている木の枝や枯れ草を山のように集めている。
「用意……だと?」
「うそ、今宵、知らないの? あのね、焚き火にする薪にはね、なるべく乾いた枝を集めなきゃいけないの。落ち葉の下でしけしけしてるのとか、あんまり太いのとかは駄目。いちばんいいのはね、ぱきって音がして折れるやつだよ。……あー、でもこのあたりはあんまりいいのがないなあ。どうしよ……あ、ねえ、今宵も探すの手伝ってよ」
 これだから。
「…………」
「なにその目」
「……おまえ、魔法使いだろ」
「そうだけど?」
 なにをいまさら、と言わんばかりの顔をしているつぐなを見て、今宵は言うに言えない虚脱感を覚える。猫になりたい。
「なら」
「なに?」
「魔法で火ィつけろよ」
「えーやだー」
「何が嫌だだ」
「魔法って面倒だもん」
「!?」
 ぽてん。
 ついに今宵は卒倒した。
 しかしそうしているうちにもつぐなはてきぱきと作業を進めていくのだった。唾をつけた人差し指で風向きを確認し、地面を少し掘って、そこに集めた枝を太いのから細いのへと順に組み並べ、さらに背負い袋からほくち箱を取り出し、かちんかちんと石を叩き、おそるべき手際の良さで火種を作る。そして、
「でーきたっ!」
 所要時間、実に三分。
 焚き火が完成した――そう、まるで魔法のように。
「ほら今宵ー、そんなとこで寝てないでこっちでいっしょにごはんにしよーよー」
 ぱちぱちと熾り火のはじける音。炎を照り返してあかあかと浮かぶつぐなの顔。ものすごく嬉しそうなつぐなの笑顔。
「やりきれん……」
 今宵は深々と溜め息をついた。
 起き上がったとき、首輪がやけに重く感じた。

 ほんとうの夜がやって来た。

 鍋を火にかけて、野草を刻んで入れたパン粥を作った。つぐなは情けないことに今宵より猫舌なので、食べ終わるまでにずいぶん時間がかかった。それからしばらく、つぐなは炎を見つめながら、眠るでもなくぼんやりとしている。
「ねぇ今宵」
 つぐなはいつも、今宵をそうやって呼ぶ。
 しかし今宵は返事をしない。それもまたいつものことだ。三回呼んで一回返事があるかないかくらいでなければ、猫はやっていけない。そしてつぐなが今宵の名を呼ぶことは日に何回もあるが、逆はいまだに一度きりしかない。
「……『塔』のこと、考えてたよ」
「あー?」
「塔」
「繰り返すな」
「うん」
 手にした長い枝で灰をかき混ぜるつぐな。彼女が『アッシュペクト』なる二つ名で呼ばれるようになるのはそう遠い未来ではないのだが、今ここにいるのはただ灰を混ぜているだけの少女だ。
 火の粉がふわりと舞う。
「塔には、何があるのかな」
「さァな」
 それは今宵も知らない、と前に言ったはずだった。
「行けば分かんだろ」
「身も蓋もないね、今宵は」
「ふん」
「わたしはね、なんでもいいの」
 身も蓋もないのはどっちだ。
「ほんとうに大魔法使いになれるなら。あのね、大魔法使いになるってどういうことなのか、わたしにはまだよくわからないけど……少しでもそこに近づけるなら、途中の道は塔でも何でもいいの」
 つぐなは炎を見つめている。
 今宵は、炎を見つめるつぐなを見つめている。
「今宵が塔の話をしてくれたとき、わたしはこれだと思ったの。きっとどこかでそういう話に乗らないとだめだって、ずっと思ってたから。だって、このままじゃわたしなんて、大どころか普通の魔法使いにもなれないから」
「…………」
 そのとき感じた肌寒さは、別に今宵の気の所為ではない。
 夜が更けるにつれ、森の空気は次第にひんやりとした湿り気を帯びてきた。しかし、今宵はそれ以上に何か、心が冷やされるような寒さを覚えていた。
「馬鹿臭ェな」
「そうかな」
「そうだ」
 いつにないことを、今宵は言った。
「一点賭けなんてな、止めとけ。まだ早ェよおまえには」
「だめかな」
「駄目だな」
「あう。そっかあ……」
 つぐなはそう言いながら、それほど残念そうな顔をしなかった。
 今宵はそんな顔をするつぐなを、今までに三回ほど見たことがある。特に最初の一回は何があろうと忘れはしない、それは五つの橋に囲まれた街、年に一度の祝祭が終わる夜、再び欠け始めた満月の下、石畳の街路に長い影を伸ばし、死がふたりを分かつまでと誓約を交わして、猫と少女がふたりでひとつになった日のこと。そう、あの日のつぐなと同じつぐなが、いま、ここにいる。
 今宵は目を細めた。
「伏せろ」
「……え?」
「いいから伏せろ早く」
「う、うん……これでいい?」
 今宵のただならぬ雰囲気に圧され、つぐなはその場にころんと横になる。
「膝を丸めろ。背中もだ。腕は胸の前に組め」
「こ、こう?」
 つぐなは丸まった――まるで猫のように。
「今宵、こ、これでいいのー?」
「…………」
 今宵は何も言わずにとことことつぐなに歩み寄る。そしておもむろに、
「ふー」
 身を丸めるつぐなの懐に、すっぽりと収まった。
「あ」
「温い」
「ああー! 今宵ずるいー! わたしを布団にするつもりだ!」
「吝嗇言うな。減るモンじゃねェ」
「むうう、なんか納得できない――」
 つぐなはぶーぶーと文句をたれる。
 だが、懐でふかふかの毛玉のようになっている今宵を抱いていると、つぐなもそれはそれでとてもあったかいということに気づくのだった。つぐなは自分で思っているほど馬鹿ではないし、今宵はつぐなが思っているよりはるかに賢い。
 抱きしめる。
「えへへ」
「……ひとの背中で笑うな気色悪ィ」
 忘れては、いけない。
 この世界に数多といるであろう魔導に因する猫の一匹残らずすべてがそうであるように、今宵もまた、いつの日か大魔法使いの使い魔になることを心の底から望んでやまない黒猫の一匹である。そして、今宵ほどの猫ならば、もっとまっとうに優秀な主人を選ぶこともできたはずなのだ。
 そうしなかったのは、何故か。
 それはたぶん、きっと、今宵も『そう』だから。
「ねえ今宵」
「ん」
「首輪がとげとげする」
「いいから寝ろ」
「……うん」
 目を閉じた。
 この夜が明けるまで、焚き火は一人と一匹のために燃え続けてくれるだろう。つぐなは魔法をかけるかのように心の中でそう思った。
 そして今宵を抱いたまま、すぐに眠りに落ちていった。

 幻のように、それは在った。

 塔が聳え立っている。
 森の只中に突如としてあらわれた、ぽっかりとひらけた場所。木が生えていない円形の広場、その中央に果たして『塔』は立っていた。取り巻く濃い緑の木々と、今日はやけに薄い青の空を背景にして、まるで一幅の絵のように――それも性質の悪い騙し絵のようにその灰色の塔は立っていた。
「着いたね……」
 つぐなは、自分の言葉を信じていないような声で言った。
 じっと見上げても、その大きさを測りかねる。光沢のない、そして繋ぎ目もないその外壁は石でできているのか、土なのか、それとも何らかの金属でできているのか、見当もつかない。
「ふん」
 今宵は、いつもとさして変わらぬように鼻で返事をした。
 灰色の塔。もっとも、地面から近いところは蔓草がびっしりと這い登っている。そしてそのことが、ついに今宵の目からさえもこの塔の本質を隠しおおせたのだった。結局、この塔が『立っている』のではなく、この大地から『生えている』のだということに少女と猫が気づくのは、これよりずっと後のことになる。
「塔、だね」
「阿呆。見りゃ分かんだろ」
「……入ろっか」
「ずっとここで突ッ立ッてる算段だったのか?」
「わかってるもん」
 つぐなは塔に向かって歩き始めた。
「おい」
「な、なに?」
「右手と右足が同時に出てんぞ」
「あう……」
 少女と猫は塔の入り口に立つ。
 入り口が普通にあるだけでも幸いだった。つぐなを縦に二人並べてさらに今宵を継ぎ足した分くらいの大扉が、塔の壁面にへばりついていた。つぐなはごくんと生唾を飲み込む。
「き、緊張、するね」
「今更」
 震える手を扉に添える。
「ごめんくださーい……」
「言うのかよ」
「あ、でも、閉まってるかも、」
 開いた。
「わ」
 扉は、音もなく開いた。つぐなの手が触れるや否やのところで、灰色の大扉は意思あるかのごとく勝手に奥へと開いていった。今宵がわざとらしく言う。
「……馬鹿力」
「ち、ちがうもんっ」
「どうだか。お、こりゃあ――」
「わあ!」
 古い時間のにおいがした。
「本だ……」
 本が、それも山のような本が、そこにはあった。
 街の図書館にもここまでの書籍は詰まっていまい。右も左も本だらけ、本と本の隙間にまだ本が詰め込まれている。大きさも厚さもさまざまな本がこちらでは整然と、あちらでは無造作に積まれている。今宵の寝床ほどもある分厚い革表紙が寝そべっていると思えば、ピンセットでも使わなければ開けないであろう小さな本が何百冊も並んでいたりする。
 ここは、書庫だ。
 この塔は、本の塔なのだ。
「すごい、本だよ本! 今宵、本がいっぱいある!」
 さっきまでの緊張はどこへやら。つぐなは今にも飛び跳ねんばかりに興奮している。実はつぐなは本好きである。それもかなりの重度で、図鑑が一冊あれば三日はつぐなを黙らせておけることを今宵は知っている。
「わああ、上まで全部、これぜーんぶ本だよ!」
「ふむ……」
 見上げる。
 塔の内壁には階段がめぐらされている。登り口はふたつ、それぞれ反対方向に向かってぐるぐると内壁を回りながら上へと続き、ある点でいったん交差し、それからまた離れていくを繰り返している――二重螺旋の階段だ。そしてその一段一段や踊り場にもうずたかく本が積まれており、ずっと上の方には部屋の入り口らしき扉がいくつか見受けられた。その奥にも同じようにまた本が詰まっているのだろうか。
「すごいね。誰がこんなに集めたんだろう」
「さァな」
「そだ、人は住んでいないのかな」
「居ねェだろ」
「どうしてわかるの?」
「匂い」
 くんくんとつぐなは猫を真似てみたが、少しかび臭いと思っただけでよく分からなかった。ただなんとなく、ここには誰からも忘れられた屋根裏部屋のように、誰かの秘密や思い出が滞っているような、そんな気がした。
「……でも、ほんとうだったんだ」
「何がだ」
「たからもの」
 本の山。
「宝、か」
 今宵は素気なく呟いた。
「文明の礎、知識の塔。……ま、そう言やそうかもな」
 つぐなは今宵の態度が少しだけひっかかった。つぐなにとっての目的はおおむね塔を見つけることそのものだったのだが、今宵には今宵の求めているものがあったのかもしれない。が、それを猫に尋ねるよりは、今のつぐなはこの書庫の方に興味の大半を惹かれていた。
「きっと、一生かかっても読みきれないよ」
「だろな」
「わたしね、小さい頃からの夢だったんだよね。一度でいいから、アカデミイの図書館みたいなところで、好きなだけ本を読んでみたかったの。ここはちょっと雰囲気が違うけど、夢がかなったみたいでなんだか嬉しい」
「安ッぽい夢だな」
「いいもんねー」
 嬉しそうにきょろきょろしているつぐな。それに対して今宵は自分の思案事があるらしく、適当に相槌を打っている。
 が、次の瞬間、
「あ、この本なんか面白そう」
 つぐなの声にふと振り向き、
「んー、でも難しいなあこれ。なんて書いてあるんだろ?」
 つぐなが手にしているその本を見て、
「――ッておめえそれはッ!?」
 今宵の全身の毛が、どばっと一気に逆立った。
「え? な、なに? わあどうしたの今宵!?」
 思わず手にしていた本を抱きしめて、身をすくめるつぐな。今宵は毛を逆立てたまま、両目をくわっと見開き、その本を凝視している。
「……心臓が九ツとも止まるかと思ったぞ畜生」
「ちょ、今宵、顔が怖いよ」
「真逆な、真逆、こんな所で御目にかかれようとは……」
「え、これ? この本がどうかしたの?」
 すー、はー、すー、はー。
 深呼吸を繰り返して、次第に小さくなっていく今宵。
 そんなふうに驚いた今宵を見るのは、つぐなは初めてだ。むしろつぐなの方が驚いてしまったほどだ。今宵はいつもの今宵に戻るまでにずいぶんな時間を消費し、右に左に首を振ってようやく、うっそりと口を開いた。

「それは『緑表紙の本』だ」

 何の変哲もない本だった。
 否、むしろ、特徴と呼べるものがこれといって何も見当たらないのだ。辞典ほどの大きさ、しかしその表紙にも背にも書名はおろか一つの文字も記されてはおらず、装丁らしい飾りもまるでない。ただ全面、べっとりと緑に塗られているだけである。
 つぐなは本と猫を交互に見やり、
「緑表紙の、本?」
「そうだ」
「この本のこと? えと、それって本の名前?」
「ん」
 今宵は肯定とも否定ともとれるような、曖昧な返事をする。
「緑表紙の本……それじゃ、見たまんまだと思うけど」
「そうだな」
「もー、もったいぶらないでよ今宵さっきからなにその言い方。それじゃ、なんだかよくわかんないよ!」
 つぐなは怒った。
 もともと、相手を煙に巻くような喋り方をするのは今宵の十八番だ。しかし、どうも今の今宵にはそれとは違う奇妙な歯切れの悪さがあるようで、猫ならぬつぐなにはどうにも気持ちが悪い。今宵をせかす。
「ちゃんとわかるように説明して」
「――ああ」
 今宵は猫背をさらに丸くする。
「長ェぞ」
「いいもん」
 呼吸、口を開く。
「例えば。おまえは『つぐな』だな」
「……あたりまえじゃない」
「そして俺は『今宵』だ」
「そだね。今宵は、今宵」
 つぐなは今宵を指差す。
 が、今宵が顔をしかめたのですぐにひっこめる。
「そ、それで?」
「……幸いな事におまえにも俺にも、名前があるな。呼んだり名乗ったり書き記したりする為の、固有の『名前』が」
「うん」
 つぐなはつぐな。今宵は今宵。
「同様に、この世界に在るすべてのモノにも、名前が有る」
 人には人。猫には猫。花、月、星、太陽、空、大地、炎、灰、森、塔、本、雪、砂糖、スパイス、素敵な物、夢、魔法、神様、今日、季節、概念、世界。あらゆるものには、名前が与えられている。
「が、だ」
 今宵は告げる。
「だけどな、その本には名前が無ェ」
「えええ?」
 つぐなはきょとんとする。
「でもさっき、この本は『緑表紙の本』だって今宵が言ったんじゃ…・・・」
「それ、名前か?」
「ふぇ?」
 今宵は普段でも持って回ったような言い回ししかしないが、今日のこれはいつもにも増して胡乱な気配を忍ばせているようだ。つぐなは、なんだか無性に足元がむずむずしてきた。
「……ちがうの?」
「普通、『本』てのは、その中身に応じた名前を持つモノだろ。世の事象を説明するのが辞書、尤もらしい御託を並べるのが聖書、どうとでも解釈できる文章を羅列するのが預言書、おまえが好んで読むのが良い子の絵本」
「むう」
 一言多い。つぐなはむっとする。
 しかしそれはそれとして、今宵の論理はなるほど、一理あると思う。たとえば小説には変わった題名が多いけど、それとて中身が小説だから、という前提によって成り立っているものと考えればいい。言葉で騙されているような気もするが、それなら一応つぐなでも納得できる話である。
「名は体を表す。乱暴に掻い摘めば、まァ、そういう事だ」
「ふうん……」
 わかったような。
 しかし、もしそうだとするのなら。
「それじゃあ、この本も中に書いてあることをまとめて、体に合う名……ぴったりの名前をつければいいと思うんだけど」
「だからそれが、無理だ」
「どうして?」
 今宵は、告げた。
「――その本には、中身が無ェ」
 今度こそ、おかしいと思った。
「なに言ってるの今宵……うそ、中身あるよ、ちゃんとあるもん! だってわたしさっき見たもん。ほら、これ!」
 つぐなは勢いよく、適当なところをがばっと開く。
「ね、ね、難しくって読めないけど……ちゃんと中身だよっ!?」
 見開きを今宵に見せつける。
 ちなみにそこに書いて『在る』のはつぐなはおろか今宵ですら読めない、異なる世界の言語で書かれた文章だ。宵待月黒猫塔ハ管理人デアルグシャロゴスノ随意ノマニマニ更新サレルドウニモ身勝手デ適度ニ適当デ必ズ日陰ナサイトデス星ノ無イ夜空ヲ見上ゲルヨウナ気分デ閲覧クダサルノガ最適デスケレド基本的ニハ曇空バカリダト思ッテクダサイマシ。
「違うな」
 しかし、今宵は一蹴した。
「それはその本の中身じゃねェよ」
「なにそれ。言い訳?」
「誰がだ。……いいか、今そこに表示されてるのはな、その本固有の中身じゃねェ。それは『それ以外の何か』――表示する内容が無作為抽出なのか、それとも何らかの基準によって定められるのか、そこまでは神のみぞ、だ。ただ間違いないのは、それはこの瞬間、他のどこかにある他の本の、任意の文章を表示しているだけ、ッて事だ」
「え――」
 ぽかんと口を空けたままのつぐな。
 あまりにも突拍子もない、途轍も途方もない話だった。
「そんなことって……」
「嘘だと思うなら一度閉じて、同じ頁をまた開いてみりゃいい」
 つぐなは最後の抵抗を試みた。
 閉じる。だが指で憶えておいて、さっき同じところをそっと開く。
「あ、あれ?」
 そこには――特集、おいしい緑茶きのこの作り方!
 いや、たしかに同じ頁を開いたはずなのだ。それなのに、そこに書かれているのは紅茶はもう古い、時代は緑茶でカテキン元気、ハイソな主婦の間で静かな噂の立役者、渾身の総力特集二百ページ。
 めまいがした。
「開くとこ、まちがえたのかも――」
「何度やっても同じだ」
「えい!」
 閉じる。開く。
 3以上の自然数nに対してXn+Yn=Znを満たすような自然数X、Y、Zは?
「ええい!」
 閉じる。開く。
 なんだかえっちな文章。声に出して読んだらきっと廊下に立たされる。
「どうなってるのこれ……」
「つまりはそういう事だ。その本を表し示すべき名前は、存在し得ない。体が永続に不確定なモノは、名もまた永続に確定されないからだ。よって百万歩譲って、その本はガワの色だけを由来として、仮に『緑表紙の本』と呼ばれているという……ッて、おい」
 返事がない。
「……聞いちゃいねェよ」
「わああああああああ――!」
 ただのこどものようだ。
「ねえねえ今宵、これすっごいおもしろい! どんどん新しい文章が出てくるの! まるで魔法みたい! ねえ今宵、今宵ってばこれ見て見て!」
「…………」
 猫は尻尾を巻いた。
 塔の中に、黄色い声が響きわたる。

 娘と猫と森と塔と本と、そして魔法の話。

「……なんだか、かわいそうだね」
「あー?」
 閉じたり開いたりを繰り返して、ひとしきりはしゃいだあと。
 石の床にぺたりと座り、本の山にだらりと背中をあずけたつぐなは、唐突にぽつりと呟いた。それを、向こうの山で毛づくろいをしていた今宵が目だけで振り向き、訊いた。
「何が」
「んー?」
 眠そうないらえ。独り言だったのか。
 しかし今宵は妙に気になって、さらに訊いた。
「可哀想、とか言っただろ」
「あー、うん」
「何が、可哀想だ」
「……だから、この本のこと。この本は、こんなにもすごい本なのに。表紙を開くたび、旅をする列車の窓みたいに、次々に新しい世界を映し出すことができるのに。……それなのに、自分にはちゃんとした名前がないなんて。表紙の色でしか呼ばれないなんて、なんだか、かわいそうだよ」
「ああ――」
 世界のすべてさえ、その中に納めているのに。
 それなのに、与えられた名前はからっぽの名前だった。それがどれだけ悲しいことなのか。猫であり、今宵であるところの今宵には分かりようがない。分かるとすれば、同じ境遇にある者だけだろう。
 そう、まるで誰かのような。
 それは、
「我は呼ぶ!」
 突然だった。
 つぐながその場にすっくと立ち上がり、声も高らかに叫んだ。
「我は名を告ぐ者、我は名を継ぐ者! 汝、我が呼び掛けに応えたまえ。我は意の侭にすなり。我は世界を召し喚ぶなり。我が名はつぐな、『ツインルーク』の偏りを持つ者。我こそは世界に名を注ぐ者なり!」
 詠唱だった。
 それは魔法使いの見習いとなる者がいちばん最初に学ぶ、いちばん簡単な召喚呪文の前口上――しかしもちろん初級といえどもまぎれもない本物の契約の言葉であるところの、まつろわぬハイパー・テキスト・トランスファー・プロトコルである。
「おまえ、」
 微妙な間隙。
「……熱でも、あるのか?」
 今宵は思わず、主人の精神状態を疑った。
「あうぅ……」
 だが、つぐなはそれだけを唱えると、へたへたとその場にへたり込んだ。そしてさっきよりもぎゅっと強く『緑表紙の本』を抱きしめ、わずかに肩を震わせながら、泣き出す前兆のようなぐずぐずした鼻声で、
「わたしじゃ、だめかな」
「あー?」
 思いもよらないことを言い出した。
「わたしが、つけちゃだめかな、名前」
「――おまえが?」
「うん……」
 今にも消え入りそうな声。
 自分で自分の紡ぐ言葉におびえている――だが、つぐなは、続けた。
「ううん、あのね、いまじゃないよ。……いつか、わたしがもっと、ずっとずうっと賢くなって、それこそ大魔法使いって呼ばれるくらい立派になって、この『緑表紙の本』をちゃんと読めるようになったら、きっと、そのときに……表紙だけのものじゃない、ちゃんとした、ほんとうの名前をつけてあげたいの」
 名を告ぐ日。
「それじゃ、だめかな……」
 つぐな。
 彼女は知らない。
 たとえば近い未来において彼女は、この現世で最高とうたわれる偉大なる魔法使いになるだろう。すべての伝説が彼女へと集まり、すべての魔法が彼女に従うその日は、さほど遠からずやってくるだろう。暖炉の火が消えるまで、子供たちは彼女の話の続きをせがんでやまない――そんな光景がこの世界の至るところにばらまかれるだろう。
 そうしたことを、今の彼女は知らない。
 何故なら、彼女はつぐなだから。
 彼女はまだ、ただのつぐなだから。
 つぐなは大事なものをよく無くす、歳の割にはずいぶん泣き虫な、いちばん上の棚にはまだ手が届かない、魔法使いの見習いの少女だ。つぐなの特技は三つで、立ち直りが早いこと、時計を合わせること、そして最後の一つが何なのかはまだ彼女自身すら気がついていないが、もしかしたら彼女の猫は知っているのかもしれない。
 いつか、
 きっと。
「つぐな」
 だから今宵は、その名を呼んだ。
 それからさらに、ものすごく恥ずかしい台詞を口にしようとして、いや、言うか言わざるかをさんざん悩んで、やっぱり言わないでおこうと何度も思い、そのたびに何度も思い直し、結局そっぽを向いたまま、聞こえるか否かの小さな小さな声で、ようやく意を決して、今宵はつぐなにこう言った。
「……頑張れ、な」
「うんっ!」
 緑表紙の本を抱きしめたまま。
 つぐなは恥ずかしげもなく、元気いっぱいに返事をした。

(了)


2003/09/03 (30KB)
Original : 宵待月黒猫塔
Story : Sukapon-Sukaponew