晦−つきこもり
>一話目(藤村正美)
>K3

そうですわよね。
私も同感ですの。
治安はいいし、経済も安定しているし。
今の生活には満足していますわ。
だから、高野さんのやっていることが、どうしても許せなかったんですの。
あれは、やってはいけないことですわ。

私は近寄って、高野さんを止めようとしました。
「高野さん、もうやめましょう」
「うるさいわね! もう少しなのよ」
叫んだ高野さんが、ハッと青ざめました。
「た、高野さん……?」
私の声も聞こえないように、目を見開いて震えているんです。

その左腕が、異様に緊張していることに気づいて、私は視線をそちらに向けました。
……井戸から出た青白い手が、高野さんの腕をつかんでいました。
「たす……け……」
あんな弱々しい高野さんは、あのときが初めてでしたわ。

私が手を伸ばしかけた瞬間、彼女はものすごい勢いで、井戸の中に引っぱり込まれてしまったのです。
続いて、何かをへし折るような鈍い音が響きました。
私は腰を抜かして、はうように逃げ出しました。
だって、そうでしょう。

青白い手の正体が何でも、もう高野さんは生きているはずなかったんですもの。
井戸に駆け寄って、自分まで犠牲になることはありませんわ。
私は、彼女を見殺しにしたわけではないんです。
冷静に、正確に判断しただけなんですわ。

もう少しで木戸というとき、急に足が重くなったんです。
振り向くと、井戸から長く伸びた例の手が、私の足をつかんでいました。
私は、悲鳴をあげたかもしれません。
……よく、覚えていませんの。
気がついたとき、私は婦長に肩を揺すられていたんです。

「どうかしたの、うなされていたわよ」
私は、ナースステーションにいたんですの。
机に突っ伏して、居眠りをするような体勢で。
今のは、夢?
私はあわてて立ち上がり、高野さんを捜しました。

「どうしたの? 誰に用なの」
「高野さんは……高野さんは、どこにいるのでしょう?」
私の質問に、婦長は首をかしげました。
「高野さん? うちには、そんな人いないでしょう」
「何をいっているんですか。
私と同期の高野さんですよ?」
「そんなこといってもねえ……」

婦長は、本当に困っているようでした。
高野さんのことなんて、まったく知らないという顔でしたわ。
でも、彼女のことも夢の中のできごとだなんて、そんなことあり得ません。
だから、他の人にも聞いてまわりました。

……高野さんを知っているという人は、一人もいませんでしたわ。
もしかしたら、本当に私の勘違いなのかもしれない……。
だんだん、そんな気がしてきました。
この私が、夢と現実の区別ができなくなるなんて……ショックでしたわ。

ガッカリしたまま、私は勤務に戻りました。
特別室に行って、中山さんの血圧を測ったりしなければならなかったんです。
中山さんに会っても、彼女は特別な反応を示しませんでした。
だから、やっぱり私の勘違いなのかと思ったんですの。

私は彼女の腕を取って、検査を始めました。
そのとき、耳元でささやく声が聞こえたんです。
「なんだ……生きていたのかい」
中山さんは、薄ら笑いを浮かべていました。

「友達でも連れていったのかい。
あいつは、一度の狩りで一匹しか、獲物を捕らないからねえ」
細められた目は、よく切れるナイフのように光っていました。

「あいつって……井戸の中にいた生き物のことですね……」
私の声は、みっともないくらい震えていましたわ。
「あれは……な、なんなんですの……?」
彼女は、ククッとのどの奥を鳴らしました。
笑ったのかもしれませんわね。

「あれはね……私の妹さ」
毛布の下で、青白い手がうごめいたような気がしました。
その夜、私は高熱を出して寝込みました。
そして数日間寝ているうちに、私の研修期間は終わってしまいました。

だから、二度と中山さんに会うことはなかったのですわ。
よかった、というべきなのでしょうね。
あのときの彼女の目を思い出すと、今でも体が震えますもの。
それっきり、私はあの病院に足を踏み入れていません。

まだ中山さんが、最上階の特別室にいるのか、それともどこかへ行ってしまったのかも、知りようがありません。
知りたいとも思いませんけれど。
私の話は、これで終わりですわ。
お次はどなた?


       (二話目に続く)