晦−つきこもり
>二話目(真田泰明)
>Q6

ええっ、葉子ちゃん、おとなしそうに見えるけど、凄いこというな。
結構小説とか、映画とか、そういうフィクションに慣れ親しんでるということかな、ははっ。

このドラマでは、敵役が主人公を殺そうとする場面が三つあった。
一つは毒殺しようとするシーン、もう一つは崖からつき落とそうとするシーン、そして、ナイフで刺そうとするシーンだ。
片桐は毒殺しようとするシーンを使おうと考えた。

撮影現場なんか、人の出入りが激しいし、大道具、小道具が入り乱れている。
それで一番ごまかしやすいと思ったみたいだね。
それにこのシーンの撮影のスケジュールが一番早かったんだ。
もう、一日でも生かしちゃおけない、そんな感じだったのかな。

片桐はそのシーンを撮影の日まで、何回も練習した。
絶対ミスれない、一世一代の演技のつもりだったと思うよ。
もちろん、坂田が本当に死んだ後に悲しむ演技も含めてね。
そして、その撮影の当日になった。

「シーン68いきます」
片桐はあらかじめ用意しておいた毒を、撮影用の小道具とすりかえると、堂々とコーヒーに入れたんだ。
もちろん、ドラマでは相手に隠れて入れるシーンなんだけど。
迫真の演技さ、本当にそういう心境だったんだから。

片桐はコーヒーカップを坂田の前のテーブルに出した。
もちろん、毒入りだ。
二人は緊迫した会話を交わしている。
そして、坂田がコーヒーを飲んだ。
「………………」
彼はカップを床に落とした。

そしてこの世のものとは思えない悲鳴を発し、胸を押さえ苦しみだしたんだ。
(ふふ、まさに迫真の演技だな………)
片桐はそう思いながら、坂田が苦しむのを見ていた。
そして坂田はぐったりして、動かなくなったんだ。

「カット! OKー!」
彼はこれから起こるであろう騒ぎに身構えた。
撮影が終了しても起き上がらない奴の所へスタッフが駆け寄り、本当に死んでいることに気付くだろう。
(そこから俺にとっては本当の演技が始まるんだ)
片桐は、そう考えていた。

(俺は坂田のところに駆け寄り、『早く救急車を!』と叫ぶ。そして、どうしてこんなことが起きたんだと苦悩するんだ、彼を抱きあげながら……、ふっ、ふふふ……)

しかし、何も起こらなかった。
というより坂田は立ち上がり、平然と歩きだしたんだ。
そして、スタッフの賞賛を浴びていた。
ディレクターは満面の笑みを浮かべ、坂田にいったんだ。

「凄いよ、今のシーン。演技だとわかってても、本当に苦しんでいるんじゃないかって何度も錯覚しかけたよ」
そして、ディレクターは片桐のところにも来た。

「まるで本当に殺すのかと思うほど、殺気が漂って、特に殺した後の笑みがたまらなかったよな」
ディレクターは興奮しながらそういったんだ。
(笑み、俺は笑ったのか……)
片桐は坂田が生きていることに驚きながらも、そんな演技のミスが気になった。

「このドラマ、良いものになるぞ、ははっ」
ディレクターはそういうと次のシーンの準備を指示しだした。
(薬を間違えたのか……?)
片桐は、そう思った。
しかし、どう考えてもそんなはずはないんだ。
彼は呆然と立ちすくんだ。

「おーい、片桐君。どうしたんだ」
ディレクターは彼を呼んだ。
「彼はまだ役になりきっているんですよっ、ははっ」
ベテランのADが笑いながらディレクターにそういった。

「ははっ、あれほどの演技だもんな、ははっ」
ディレクターも嬉しそうに笑った。
(どういうことなんだ……)
片桐は考えた。
そしてフッと坂田を見た。
……坂田は、片桐の方を見るとまるで魔物のように微笑んだんだ。

いや、少なくとも片桐にはそう見えたんだよ。
その日の撮影は終わった。
それからの片桐は魂を抜かれたように、誰が話しかけても返事をしなかったんだ。

「やっぱり片桐さんの方が役者としては上ですね」
「そうだな、ちょっと配役をミスったかな、ははっ」
その夜、誰ともなく、そんな会話を交わしていた。
次の日、片桐がロケバスに来た。
片桐の顔は真っ青で、少しやつれた感じだった。

しかし、スタッフのみんなは役作りだといって、それほど気にしている様子はなかった。
「片桐君、今日の演技も期待しているよ」
ディレクターは昨日の彼の演技に気をよくしている。
この日の予定には、主人公の坂田を崖から突き落とそうとするシーンも入っていた。

この場所での撮影は何シーンもある。
最後に撮影が予定されているのが、片桐が坂田を崖から突き落とそうとするシーンの撮影だった。
片桐はそれぞれのシーンを、そつなくこなしていく。
しかし昨日のシーンの再現はそこでは見られなかった。

水準以上の演技ではあったけど、あの迫力はなかったんだよ。
そして、最後の崖から坂田を突き落とそうとするシーンだ。
「今日の片桐さん、調子でませんね」
「そうですね。でも、もう殺人鬼になりきっているからじゃないですか。次のシーンはちょっと期待できるかもしれませんよ」

「そうか、確かに、次の坂田君を突き落とそうとするシーンは期待できるな」
そんな話題が、スタッフのあちこちで囁かれていた。
そして、最後のシーンの撮影に入った。
片桐の目が輝きだした。
いや、輝いたというより血走る、そんな感じだったんだ。

彼らの口論がはじまった。
それは凄まじかった。
そしてもみ合いが始まる。
片桐は坂田を崖まで追い詰めた。
ここでこのカットは終了だ。

しかし、彼らの死闘は、なお続いたんだ。
スタッフは騒然とした。
その激しい演技に、しだいに引き込まれていったんだ。
彼らはまるで、映画を鑑賞しているような気持ちになっていたんだよ。
片桐は坂田を崖まで追い詰めた。

その顔には、無気味な笑みが浮かんでいる。
それは見る者を慄然とさせずにはおれない笑みだった。
そして最後の力を振り絞って、片桐は坂田を崖に突き落とそうとした。
しかし、片桐はまるで坂田を体を通り抜けるように、崖に向かって落ちていったんだ。

スタッフのみんなは、映画のラストシーンを見終えたときのように、不思議な安堵感を覚えていた。
しかし、その安堵感が漂う時間の流れを坂田が破った。
坂田がカメラの方に向かい無気味な笑顔を浮かべたんだ。
このときはじめて、みんなはこれが映画の一シーンではないことを思い出した。

そして坂田は崖の方に向かうと、そのまま飛び下りる。
それはまるで宙を飛ぶようだった。
しばらくあたりの時間は止まった。
みんなは映画が終わったのに、まだその世界から抜け出られない観客のようになっていた。

いや、もしかすると彼らはその時、目の前で起きたことが現実だということを、認めたくなかったのかもしれない。
そしてその沈黙の中、やっとひとりが現実を認めようと、口を開いたんだ。
「坂田さん……」
彼は言葉を絞り出すように呟くと、崖に走りよった。

そして、やっとあたりは時間の歩みを取り戻したんだ。
スタッフは崖に駆け寄ると、下を覗いた。
片桐は倒れている。
しかし、そこに坂田の姿はなかった。
「おい、救急車!」
誰かがそう叫んだ。

そしてスタッフの何人かが崖の下へ降りていったんだ。
でも、そこには上から見たときと同じ様に片桐の姿しかなかった。
そして、坂田の姿はどんなに探しても見つからなかったんだ。
俺の話はこれで終わりだ。

いまでも坂田がどこにいるのかはわからない。
もしかしたら、坂田は毒殺のシーンで殺されていて、その後の彼は幻影だったのかもしれない。
ただ、片桐に復讐するために現れた……。
これはただの推測にすぎないけど。

でも、いつかフッと坂田が現れるかもしれない。
そうしたら、聞いてみるよ。
あのときの種明かしをね。
じゃあ、次の人の番だな。


       (三話目に続く)