晦−つきこもり
>二話目(藤村正美)
>J7

しょうがないことですわよね。
普通の人間が、味わうような恐怖では、ないんですもの。
耐えきれる人なんて、いませんわよ。
だって、その間ずっと、足音が聞こえているんですのよ。

ぴしゃ、ぴしゃ……。
こちらに近づいてくるようです。
先生はたまらなくなって、カーテンから飛び出しました。
その途端、足は先生めがけて飛びついてきたんです!
ぶつかるかと思った瞬間、何の抵抗もなく、体に入り込んできました。

体中から、力が抜けます。
いいえ、体のコントロールが、できなくなっているような感じですわね。
手足の感覚がなくて、自分が立っているのかさえも、ピンと来ないのです。

それなのに、勝手に足が動き出しました。
吉村先生は、窓に向かって走り出したのです。
「やめろぉぉぉっ」
恐怖で声が裏返りました。

あの足だ。
あの足が、自分を走らせているに違いない。
恐怖にしびれる頭の片隅に、そんな考えがよぎりました。
それがわかっているのに、抵抗する方法がわからないのです。

先生は悲鳴をあげながら、窓ガラスを突き破りました。
病室は四階でしたわ。
甲高い悲鳴が、地上めがけて長く尾を引きました。
そして、鈍い音。
みんなが駆けつけたときには、もう吉村先生は息絶えていました。

でも、不思議なことがあったんですのよ。
地面に、先生の体が引きずられたような跡が残っていたんです。
ひざから下には土がこびりついて、まるで下半身が上半身を引きずって歩いたような……。
そんな跡が、病院の建物の近くから、二十メートルほども続いていたのですわ。

死んだ上半身を、下半身が引きずろうとしたのかしら?……いいえ、そんなはずありませんわ。
吉村先生も、結局は自殺ということになったようですし。

それ以来、足音の正体を確かめようという者は、いなくなりました。
河合さんも何か感じたのか、口をつぐんだそうですわ。

それっきり、足が彼女を訪問することも、なくなったようですし。
でも、あの足の正体は何だったのでしょうね……?
そうそう、最後に一つだけ。
窓から落ちたときの、吉村先生の悲鳴のことですわ。

絶望に満ちた、背筋が寒くなるような声だったそうですの。
ところが、不思議なことに……その悲鳴と一緒に、もう一つの声が聞こえていたそうですわ。
それが……笑い声だっていうんですの。
ゲラゲラと笑いながら、地上に向かって落下していく謎の声……。

なんだか、嫌な感じですわよね。
とにかく、私の話はこれで終わりですわ。
次の方、お願いしますわね。


       (三話目に続く)