晦−つきこもり
>三話目(藤村正美)
>E5

そう、残念ですわ。
愛とは、偉大なものなんですのよ。
葉子ちゃんには、まだ早かったかもしれませんわね。
とにかく、武内さんは有頂天になってしまいました。
そんな彼に、浦野先生はいったのです。

「でも、その前に、私があなたを信じていいという証拠を、見せてもらえるかしら」
もちろん、彼は何でもする覚悟でしたわ。
でも、先生が出した条件は、あまりにも意外なことだったのです。

先生は彼を、医院のあるビルの、地下に連れていきました。
そこには、両開きでカンヌキのかかった、大きな鉄製の扉があったのです。
「この扉の向こうには、私の資料室があるの」
「資料室?」

思いも寄らない話に、武内さんは目を丸くしました。
「整形外科医の私が、資料室を持つのはおかしいかしら? でも、私は医学の進歩のために、この身を投げ出す覚悟なのよ」
先生は、美しく微笑みました。

「あなたにお願いしたいのは、この部屋の監視なの。最近、どうもコソコソ嗅ぎまわっている人がいるらしくて」
「スパイですね。おまかせください!」
武内さんは、どんと胸を叩きました。
先生は嬉しそうに彼を見て、それからカンヌキを外したのです。

「それでは、中を見てもらおうかしら。自分が何を守るのか、知っておいた方が、張り合いがあるでしょう」
先生のいうことにも、一理ありますわね。
だから彼は、何の疑問も抱かずに、開いた扉の奥を覗き込んだのですわ。

その背中が、いきなり突き飛ばされました。
「わあっ」
武内さんは、部屋の中に転げ込みました。
その背後で重い音がして、扉が閉まってしまったのです。
「せっ、先生!?」
武内さんはあわてて、扉に両手を押しつけました。

ピリピリと手のひらが張りつきます。
とっさに離すと、痛みとともに、手の皮が裂けました。
扉の表面が、凍りついているのですわ。
いいえ、扉だけではありません。
部屋全体の気温が低いのです。

「居心地はどうかしら」
扉の向こうから、くぐもった浦野先生の声が聞こえます。
「しばらくの間、そこにいてもらうわね。大丈夫、ほんの三日もすれば出してあげる」
「三日もいたら死んでしまいます! 何で、こんなことをするんですか!?」

彼は大声で叫びました。
その拍子に、冷たい空気が肺に入って、むせてしまいます。
「あなたがスパイだということは、わかっているのよ。ただ始末してもいいけれど、せっかくだから、私のコレクションに加えてあげるわ。いっておくけれど、この扉は中から、開かないから」

先生の声が、さっきより遠くなっています。
武内さんは、手の皮がくっついて破れるのも構わず、扉を叩き始めました。
「先生! 先生、誤解です!」
…………けれど、もう答えは返ってこなかったのですわ。

先生が好きで近づいたのに、まさか疑われていたなんて。
寒さが肌を刺します。
どうして、こんなに寒いのでしょう。
まるで冷凍庫の中にいるようです。
そのとき、次第に闇に慣れた目が、何かを見つけました。

誰かいるのでしょうか?
武内さんは目を凝らしましたわ。
そこには、人間の体がぶら下がっていたのです。
一人や二人じゃありません。
十以上の肉体が、天井からつり下げられているのですわ。

首の後ろを、太いカギに引っかけられてね。
力なく下がっているはずの手足は、凍りついてカチカチです。
それが、いくつもいくつも、白く漂う冷気の向こうに並んでいるのですわ。
まるでお肉屋さんの、グロテスクなパロディにも見えました。

武内さんは絶叫しました。
ここは、本当に冷凍庫なんだ!
俺たちを保存しておくための場所なんだ!!
だから先生は、異常に警戒していたんだ!!
闇の中に、彼の悲鳴が響き渡りました。

けれど、それは外に漏れることなく、誰にも気づかれなかったのですわ。
数日経って、浦野先生は地下室の扉を開けました。
武内さんは、扉に寄り掛かるようにして死んでいたのですわ。
「このタイプの顔が、前から欲しかったのよ」

先生は嬉しそうに、彼の恨めしそうな顔を見下ろしました。
「この資料室も、だいぶ充実してきたわね。これで、どんな顔にしてほしいという注文にでも、応じられるわ」
……そうなのですわ。
いろいろな顔のモデルがいれば、参考にできますものね。

死体なら顔の皮をはいで、脂肪のつき方や筋肉の盛り上がりを、実際に確かめられますわ。
腕が確かだといわれるはずです。
浦野先生は、武内さんの死体を引きずって、天井からつるそうとしました。

ところが、その拍子に、彼の脚が半開きの扉に当たったのです。
きしむような音をたてて、鉄の扉が閉まりました。
浦野先生は愕然として、扉を引き開けようとしましたわ。
でも、内側から開けられないといったのは、先生自身ですものね。

押しても引いても、どうにもならないのですわ。
「助けて! 誰か、私はここよ!!」
冷たい闇が、辺りに忍び寄ります。
悲鳴が外に聞こえないのは、前の犠牲者たちで証明済みですわ。

冷えた鉄板に皮膚が凍りつき、血が流れるまで扉を叩いても、助けなんて来るはずありません。
ええ、助けなんて来ませんわ。
きっと、そのまま今でも…………。
でも、閉じ込められたのが冷蔵室だったのは、救いですわよ。

いつか誰かに見つかるまで、先生たちの死体はきれいなまま、保存されているんですものね。
うふふ……。
さあ、これで私の話は終わりですわ。
次の方は、どなた?


       (四話目に続く)