晦−つきこもり
>三話目(藤村正美)
>M5
そう、でも今はいわないでおきましょう。
話が進めば、どうせわかることですわ。
とにかく、彼は入院したんですの。
意外にも、即手術ということにはなりませんでした。
ただ病室で、安静にしているだけ。
体調を整えるために、食事制限こそされましたが、ほとんど入院の必要を感じないような有様でしたの。
そのまま、一ヶ月が過ぎました。
とうとうたまりかねて、武内さんは先生にいったのですわ。
「僕の手術は、いつやってもらえるんですか?」
怒られるかもしれないと思っていたんです。
ところが、先生は彼の手を取りました。
「そうね、私もそろそろだと思っていたの。では、用意に取りかかりましょうか」
微笑んだ先生の瞳は、妙に熱っぽくうるんでいました。
なんとなく嫌な予感がしましたが、もう後へは引けません。
手術は明日と決まり、武内さんの前には、早めの夕食が並べられました。
メニューは、いつものように数種類の野菜と、蜂蜜ドリンク。
健康的なそのメニューも、その夜はのどを通りませんでしたの。
次の日、手術台に乗せられた武内さんは、麻酔をかけられました。
ぼんやり天井を見つめる彼を、浦野先生が覗き込みましたわ。
「私の特製料理で、あなたの体の中は、きれいになっているわ。
これなら、あの子も満足してくれるに違いない……」
ひとりごとのようなつぶやき。
もう彼には、その意味を考えることもできませんでした。
眠りに落ちた彼を乗せて、手術台は手術室を通り過ぎました。
奥には、隠しドアでカモフラージュされた、地下へのスロープがあったのですわ。
浦野先生は、その美しい顔で微笑みました。
「武内さんが、私のように美しくなるのは無理。せめて、私の一部にしてあげる……」
そうつぶやきながら、先生は手術台を押し出しました。
手術台はスロープを滑り降り、加速しながら闇に消えました。
次の瞬間、大型の猛獣のような、うなり声が聞こえたんです。
そして、何か固い物が砕けるような音が。
よく見れば、闇の中に何かが潜んでいる気配がします。
漂ってくるのは、生々しい血の臭いと、そして……水の臭い。
それも、森の奥にあるような沼の、どろりと深緑色に腐った水の臭いですわ。
ピチャピチャといっているのは、その水の音でしょうか?
それとも、武内さんの血?
それに、ふしゅー、ふしゅーとかすかに聞こえる呼吸音。
浦野先生は目を閉じて、妙なる音楽でも聞くように、耳をすましていましたわ。
「おいしいでしょう? お腹がいっぱいになったら、いつもの乳液をちょうだい……」
甘い声が、闇に溶けていきました。
その最後の残響が消える前に、何かが出てきたのですわ。
長い長い……みみずのようなチューブです。
その先から、タラタラと薄緑の液体が、こぼれているのです。
先生は嬉しそうに、その液体を手のひらにためました。
そして、顔中に塗りたくったのです。
「これさえあれば、私は永遠に美しくいられる。私が美しければ、患者はいくらだって来るわ……」
うわごとのように、先生はつぶやいていました。
乳液を塗ると、不思議なことに、肌が艶やかになるようでしたわ。
闇の中にいたのが何であれ、それが浦野先生の美貌の秘密だったのですわね。
どこで、そんなものを手に入れたのか……。
それがわかれば、真似をしたがる人も、いるのじゃないかしら。
私?
……うふふ、どうかしら。
とにかく先生は、それを養うために、武内さんを利用したのでしょう。
先生の賢いところは、一ヶ月の間、入院させておいたということですわね。
武内さんには、誰にも何もいわないように指示を出して、様子を見ていたのですわ。
怪しんで捜されないのを確認して、それから食べさせたんですわね。
きっと今までも、身寄りのない患者さんが何人か、行方不明になっているかもしれません。
顔を変えたい犯罪者とか……。
もっとも先生は、その人たちのカルテを残しておくほど、愚かではないと思いますけれど。
……どうして、こんな話を知っているのか不思議なんでしょう?
うふふ、それはいえませんわ。
それでも知りたいのなら、ほら、私の顔を見てくださいな。
しわも染みもない、きれいな肌。
艶やかで、まるで陶磁器のようでしょう。
化粧品のおかげなんですのよ。
そういって、正美おばさんは小ビンを出した。
中には、とろっとした薄緑色の液体が入っている。
この色……。
おばさんが話してくれた乳液って、まさか……!?
信じられないと、笑い飛ばしたい。
だけど、顔の筋肉がこわばって笑えない。
おばさん……浦野先生って誰なの?
その人、おばさんとはどういう関係なの!?
思い切って口に出そうとした瞬間。
「それでは、次の話を聞きましょうか」
正美おばさんが、にっこりと笑った。
(四話目に続く)