晦−つきこもり
>四話目(山崎哲夫)
>J9

ジロジロ見るだって!!

葉子ちゃん……!!
そんな恐ろしいことをするっていうのかい?
…………そうか。
葉子ちゃんは、山の掟を知らないんだったな。
だったら、しょうがないか。
いいかい?
これから自分がいうことを、しっかりと覚えておくんだぞ。

山には、魔物が住んでるんだ。
実際に出会った自分がいうんだから嘘じゃないぞ。
焚き火の向こう側に現れた男……。
どこかで見たことのあるような顔だと思ったよ。
目、鼻、口……。
着ている物から脇に置かれたザックまで……。

どこか、見覚えのあるやつだったんだ。
…………!
自分の頭を、ある考えがよぎる。
自分はその考えを確かめようと、おそるおそる右手を上げたんだ。
すると……!?

案の定、その男も向かって右側の手を上げたよ。
自分が左手を上げれば、そいつも同じことをする。
そいつはな……、自分の影だったんだ。
炎の向こう側に、まるで鏡が置かれてるかのようだったよ。
こいつは、自分の影なんだ!

そう思った瞬間、自分の脳裏に、例の魔物の噂が浮かび上がったんだ。
『太陽が地平線にかかる朝と夕方……、霧の中に魔物が姿を現す。だが、けっして魔物を凝視してはいけない。見ないのが一番だが、どうしても気になる場合は、時折、チラチラと目を向ける程度におさえよ』

……これが、その魔物について伝えられている噂だ。
自分は、慌てて目をそらしたよ。
腕時計で確認した時刻は、十七時二十三分。
ちょうど日が沈む頃だったはずさ。
……どれくらいの時間が過ぎたんだろうか。

実際は、そんなにたいした時間は過ぎてなかっただろう。
だがな、自分には、とてつもなく長い時間のように思えたよ。
まだ奴はいるんだろうか…………?
もう、日は沈んでしまったはずだが……。
もういないかもしれない……。
まだいるかもしれない……。

そんな考えが、頭の中をぐるぐる回ってた。
それでな……。
どうやら自分は、そのまま眠ってしまったらしいんだ。
ハッと気が付いた時には、焚き火の火は消え、わずかに開いた戸の隙間からは朝日が差し込んでたよ。

その白いもやのような光の中で、かすかに白い人影が、揺れたような気がした……。
寝ぼけただけかもしれないがな。
がっはっはっはっは。
ふうっ、あいかわらず豪快な笑い方だわ。
こんな笑い方するのは、哲夫おじさんだけよ。

……でも、そういえば……。
哲夫おじさんて、昔はもっとおっとりした性格だったよね。
全寮制の学校にいた時の習慣で、毎日、午後三時になると紅茶を飲んでたわ。
こうやって親戚が集まる時も、一人、窓辺で詩集を読んでて……。
考えてみれば、今とは大違い。

いったい、いつからこんな豪快な人になっちゃったんだろう……?
昔、読んだ物語に、人と影とが入れ代わっちゃう話があったわ。
存在感のない男の子が、影に食べられちゃって、いつのまにか自分が影になっちゃってるの。

男の子と影は、まったく正反対の性格で…………。
……その先は忘れちゃったなぁ。
でも、あれも確か山の話だったわ。

「がっはっは!
葉子ちゃん、そんなにジロジロ見ないでくれよ。いったいどうしたっていうんだい?」
哲夫おじさんは、ニコニコしながら私の顔を覗き込む。
「ううん、何でもないの……」
私は、無理に笑顔をつくって答えたわ。

必死に、心に浮かぶ考えを否定しながら……。
「そうか? じゃあ、次の話にいってもらおうか? がっはっはっはっは」
……でも。
私の目の前にいるのは、本物の哲夫おじさんなのかしら?


       (五話目に続く)