晦−つきこもり
>六話目(藤村正美)
>M6

そう、葉子ちゃんはやさしいんですのね。
それなら、彼女の大変さもわかるでしょう。

佐原さんには仕事があるんですもの、しかたありませんわ。
ナースステーションに帰ってすぐ、巡回の時間になりました。
だから彼女たちは、病院の見回りに出かけたんですわ。
まっすぐに伸びた、夜の廊下をね。

窓の外は雲が多くて、月光も切れ切れにしかさし込んで来ません。
こんな夜は珍しくもないのに、佐原さんはなぜだか、胸騒ぎを感じていました。
そんなときでしたわ。
「うぎゃああーーーーっ!!」
病院内に、悲鳴がこだましたのです。

「戸部さんの病室の方だわ!」
駆けつけてみると、戸部さんはベッドの上にうずくまっていました。
「いるんだ……いるんだよ。看護婦……看護婦が……」
ブツブツと繰り返しながら、身を縮めています。

「大丈夫です。落ち着いてください、戸部さん」
そういって、佐原さんは彼の肩に触れました。
その手を振り払い、戸部さんは窓のカーテンを指差したのです。

「いるじゃねえか、そこに! 見えないとでもいうのかよ!!」
でも、病室の白いカーテンは、ただ静かに垂れ下がっているだけです。
おそらく戸部さんは、神経過敏になっているだけなのでしょう。

佐原さんは、彼を安心させるために、窓のところまで行きました。
「今から、カーテンを開けますからね。誰もいるはずないんですから」
なだめるような口調でいった後、カーテンをつかみました。
その瞬間、彼女の体を、悪寒が走りぬけたのです。

誰かに見られている!?
……そんなこと、あり得ないとわかっているのに。
ここには確かに、私たち以外の誰かがいる…………。
けれど、部屋の中には隠れる場所などありません。
それなら窓の外は……というと、病室は三階にあるので、もっとあり得ないことなのです。

佐原さんの全身には、冷たい汗が流れていました。
誰かが侵入して来ようとしている?
いいえ、建物の外には、何もとっかかりになりそうなものは、ありません。
登って来るなんて、できることじゃありませんわ。

……でも、人間じゃなかったら?
それどころか、生きているものではないとしたら、垂直な壁だって登れるのでは?
恐ろしい想像が、形を変えながらふくらんでいきます。

佐原さんには、何者かが壁を登ろうとしている、ヌチョリ……とした物音さえ、聞こえてくるような気がしました。
「あんたも感じてるんだろう!?」
突然、背後から戸部さんの声が浴びせかけられました。

「何かいるのがわかってるから、カーテンを開けられないんだ!」
恐怖を、そのまま音にしたような、戸部さんの絶叫。
それを聞いて、佐原さんの腕が、反射的に動きました。
バサッとカーテンがひるがえります。

その向こうに現れた窓には……!
何もいなかったのです。
窓枠に、四角く切り取られた夜空には、いつくかの星が瞬いています。
木々のシルエットを揺らす風もない、静かな夜でした。
佐原さんは、ホウッと息を吐きました。

「ほら、何も……」
笑顔で振り向こうとしたときでした。
「佐原さんッ!!」
同僚看護婦の悲鳴が耳に届くと同時に、指に鋭い痛みが走ったのです。
佐原さんは、あわててカーテンを放しました。
いいえ、放そうとしたのです。

けれどカーテンは、彼女の手にくっついたままなのですわ。
彼女はカーテンを見て…………悲鳴をあげました。
「キャアアーーーーーーッ!!」
カーテンには、歪んだ女の顔がついていたのです。
それが、腫れぼったいまぶたを見開いて、彼女の親指に噛みついていたのですわ。

ゴリリッと、無気味な音が響きました。
鋭く尖った歯が、佐原さんの親指を噛み砕いたのです。
吹き出した血と、脳天まで貫く強烈な痛みに、佐原さんはもう一度、絶叫しました。
それを後目に、カーテンの顔は血まみれの口元を歪ませ、笑ったのですわ。

そして、風もないのに舞い上がったカーテンが、フックから外れて戸部さんを襲ったのです。
「ウギャアアッ!!」
カーテンに包まれた戸部さんは、声の限りに絶叫しました。
手足をバタつかせて、カーテンから逃れようとしています。

それでも、まるで吸いついたかのように、離れることができないのです。
カーテン越しに、段々と戸部さんの動きが、ゆっくりになったのが見てとれました。
そして、とうとうピクリとも動かなくなったのです。
待っていたように、ふわりとカーテンが動きました。

スルスルと、カーテンが床に落ちたあと、戸部さんの姿が現れたのです。
今にも叫び出しそうに口を開けたまま、虚空を見つめている凍りついた表情。
真っ青な顔色は、彼がもう生きていないことを、明確に表していましたわ。

そして、佐原さんと同僚の看護婦は、気絶してしまったのです。
……朝になって発見された時には、二人とも正気をなくしていました。
壁を見つめているかと思えば、急に叫び出したり。

そんな彼女たちから、必死に聞き出したのが、今の話なんですわ。
ええ、もちろん病院側は、そんなこと信じませんでした。
けれど……私、聞いたんですわ。
戸部さんの死因は、失血死だったんですって。

つまり、大量の血を失ったために亡くなった、ということですわね。
でも、彼の体には、かすり傷一つ残っていなかったそうですわ。
彼の血は、どこへ消えてしまったんでしょうねえ……。
正美おばさんは、そういって遠い目をした。

確かに、そのことも不思議だけど、もっと聞きたいことがあるわ。
「おばさん、その部屋のカーテンは調べてみたの?」
すると、おばさんはにっこり笑った。

「葉子ちゃんは、いいところに目をつけますわね。でもカーテンには、何もおかしなところがなかったんですの。だから、よけいに信じてもらえなかったんでしょうね。ただ、真夜中になると、白いカーテンが真っ赤に染まる……という噂はあるのですわ」
…………何となく気が抜けた。

そんな噂なんて、どこでも聞ける七不思議の一つみたい。
すると、正美おばさんが、くすっと笑った。
「つまらなかったかしら、葉子ちゃん」
「い、いいえ。そんなことないです……けど……」
見透かされたような気がして、どきどきした。

「いいのよ。でも……これでも、つまらないかしら!?」
おばさんの声が鋭くなった。
いつの間にか上着を脱いで、真っ白なブラウス姿だ。
そのブラウスが、見る見るうちに真紅に染め上がっていく。
おばさんの切れ長の目が、腫れぼったくふくらんで、私をにらんでいる。

「ケエーーーーッ!!」
怪鳥のような声をあげ、おばさんは私に飛びかかってきた!
なぜ……どうして!?
これはなんなの!?
誰も答えてくれないうちに、ゴリリッと無気味な音が響いた。
首筋にかみついた正美おばさんが、骨か腱を砕いた音なのだろう。

目の前が暗くなっていく。
もう…………何も見えない。


すべては闇の中に…
              終