晦−つきこもり
>六話目(藤村正美)
>W6

姫川さんですか。
葉子ちゃんたら……うふふ。
確かに、彼女のようなタイプを苦手とする人は、多いですわよね。
佐原さんも、姫川さんを選びました。
姫川さんは、当然のように個室に入りましたわ。

「まあ、狭いわね。あたくしの主人の兄の、代議士先生が見たら、なんていうでしょう」
……なんて、ブツブツいっていましたけれど。
とにかく、それで佐原さんは戻っていったのですわ。
おそらくは、姫川夫人に、心の中で文句をいいながらね。

もちろん、姫川さんの方は、そんなこと知りもしませんでしたわ。
さすがに時刻も遅いことですし、眠くなったんでしょうね。
ベッドの堅さにブツブツいいながら、横になったのです。
もともと、大したことはないケガです。

「入院した」
という事実を、友人である奥様方にいいたいために、残っていたようなものですもの。
あっという間に、眠り込んでしまいました。
しばらくすると、眠っている彼女の側で、何か物音がするのです。

初めは無視しようとした姫川さんでしたが、あまりにしつこく続くので、とうとう目を開けました。
「まったく、何の音なの。眠らせてくれないなんて、患者を何だと思っているのかしら!」
音のする方を見ると、床に水たまりができています。

そして、天井から時折、水滴が落ちては水面を揺らすのです。
彼女を悩ませたのは、その水音だったのですわ。
「まあ、雨漏りですって!? なんて不衛生な。これでも病院なのっ」
姫川さんは、ナースコールしようと、ボタンに手を伸ばしました。

そのとき、ザバッとひときわ激しい音がしたのです。
驚いて振り向くと、天井から落ちてくる水量が増えているのです。
ポタポタ垂れているだけだったのが、水道の蛇口をひねったくらいの流れに。
床の水たまりが、見る見るうちに広がっていきます。

これは、もう雨漏りなどではあり得ませんわ。
そもそも、カーテンの向こうには星が見えていて、雨雲一つ見えないのですもの。
では、水道管でも破裂したのでしょうか。
それなら、他でも騒ぎになっていて、よさそうなものですけれど。

姫川さんは、あわててナースコールしました。
ところが、応答のランプがつかないのですわ。
回線が繋がっていないようです。
「何なのよ、この病院は!」
姫川さんは毒づいて、ベッドから降りました。

ザブリ、と足首まで水に浸かりました。
いつの間にか、水位が上がっていたのです。
蛇口くらいだった水量も、今では雨樋ほどの太さになりました。

水面も、ほんの数分前までは足首までしかなかったのに、もうふくらはぎまで届こうとしています。
それほど、驚異的なスピードでしたわ。
しびれるような冷たさではありませんでしたが、それでも体温が下がり始めているようです。
寒くてたまりません。

姫川さんは、ドアを開けようとしました。
……が、開かないのですわ。
内開きのドアが、水の圧力で押されているため開かないのです。
そうしている間にも、どんどん水かさは増えていきます。
このままでは、溺れ死んでしまう!

そう思ったとき、目の前に見慣れない女性が立っていました。
「私にした仕打ち、思い出したかい……?」
憎々しげに姫川さんを見つめる女性は、頭からかぶるような、ゆったりした布をまとっていました。

どう見ても日本人には見えないのに、いっていることは理解できるのですわ。
そして、彼女を見た途端に、姫川さんの記憶が戻ったのです。
いいえ、正確には『姫川さんの記憶』ではありませんわね。
姫川さんの、前世での記憶だったのです。

彼女の前世は、強大な権力者でした。
絶対的な権力を誇り、逆らう者は徹底的に叩きつぶすという、恐怖政治をおこなっていたのですわ。
そして今、目の前に浮かぶ女性は、その権力者に殺された犠牲者だったのです。

しかも、生きたまま両手両足を縛って、沼に放り込んで溺れ死にさせていたのですわ。
「これで、私の苦しみがわかるだろう……」
女性は肩を揺らし、陰気に笑いました。
姫川さんの目から涙があふれました。

記憶が戻っても、現在の自分には責任のないことだと、いいたかったのでしょう。
けれど、女性は冷たい目で見下ろしていました。
「さようなら。もうすぐ、この部屋は水でいっぱいになるわ」
やめて!!
……姫川さんの叫びは、声にはなりませんでしたわ。

朝になって、姫川さんの遺体が発見されましたの。
不思議なことに、死因は溺死ということでしたわ。
佐原さんたちは、『死を招くベッド』の、新しい犠牲者だと噂しましたわ。

でも……私、それは当たらずとも遠からずではないかと、思いますの。
あのベッドは、どこか別の次元と繋がっているのではないでしょうか。
そこに寝た人間の前世をよみがえらせるような、つながりがある方を呼び寄せるような……。

それまでに亡くなった方も、姫川さんと同じようなことが、あったのじゃないかと思うんですのよ。
……………………………………… ………。
……………………………………… ………。
……………………………………… ………。

……………………………………… ………。
……ところで葉子ちゃん。
私がなぜ、こんな話をしたか、わかりますかしら?
私にも、前世の記憶があるからなんですの。
もっとも、昔からあったわけではありませんわ。

つい最近、思い出したんですの。
葉子ちゃんには、前世の記憶はないのかしら。
正美おばさんは私を見ていた。
顔は笑っているけれど、目は冷たく尖っている。
何だか、嫌な予感がするわ。

「葉子ちゃん、答えてくださいな」
おばさんが、いいつのる。
「そんなの……別にないわ……」
声がうわずる。
この不安は何なの?
おばさんの目が、ギラッと光った。

「そう……そうなの。では、私と前世で姉妹だったことも、覚えていないんですわね。私の恋人と組んで、私を裏切り、殺したことも……」
おばさんの右手には、銀色に光る刃物が握られている。
あれは、メス?

ゆらりと立ち上がるその姿は、生きている人間には見えなかった。
まるで……いつか本で見た、幽鬼のようだった。
「あのときの恨み……晴らしてやるわ!」
低くつぶやく声も、ドスが利いてて正美おばさんじゃないみたい。

でも、そんな馬鹿なことって。
前世の記憶なんて、全然覚えのないことで殺されるなんて、信じられないわ。
逃げなきゃ!
私は立ち上がろうとした。
けれど、それより一瞬早く、鬼女の顔をしたおばさんが、メスを振り上げて襲いかかってきた……。


すべては闇の中に…
              終