晦−つきこもり
>三話目(鈴木由香里)
>A6

だよね。
普通は、恐ろしくって、たまんないよね。
死人ってだけでも充分怖いのにさぁ、ぐるぐる回ってるんだよ。
自殺したものの、なかなか成仏できなくて、いかにも後悔とか怨念とかを持ったまま、この世をさ迷ってるみたいじゃん。

井上先輩は、恐怖に引きつった顔を水面から出すと、シュノーケルを外して帰らせてもらえるよう頼んだそうだよ。
でもね、
「駄目だね。お前には、もう前金を渡してあるんだから」
ダイバーたちを指揮するボートの上からは、こんな返事が返ってきたんだって。

ええっ!? って思うじゃん?
ボートの上で返事したのは他の誰でもない、二階堂さんだったのさ。
二階堂さんのご馳走してくれた料理も、酒も、すべて遺体捜索のアルバイト代。
おいしい料理に目が眩んで、警戒を解いてしまったのが、先輩の失敗だったね。

騙された……って、こんな時になって気付いたって遅いって。
さっさと、仕事に戻った方が賢明だよね。
それでも先輩が潜らずにぐずぐずしていると、二階堂さんが手に持っていたオールで頭をこづくんだって。

先輩はしかたなく水中に潜り、これは仕事だ! 仕事なんだ!! って、自分で自分を説得しながら、遺体を引き上げたそうだよ。
そんなに強く殴られたわけじゃなかったけど、先輩にとっては、自殺者の遺体よりも、滝壷へ続く崖に浮かぶといわれる幽霊よりも、このオールを握った二階堂さんの方が怖かったんじゃん?

「もう、地獄の鬼のような奴だった!」
先輩がこの話を聞かせてくれた時、最後に、吐き捨てるようにいったんだ。
仕事が終わった後、落ち着いて考えてみると、二階堂さんの騙すような手口といい、オールで人を殴ったことといい、理不尽なことだらけじゃん。

あの時、気付かなかっただけに悔しくってしょうがなかったんだよ。
「そういう奴こそ、死ぬべきだよな」
ふいに、誰かが呟いた。
そうそう、いってなかったよね。

井上先輩からこの話を聞いたのって、夏合宿の夜だったんだ。
彼の所属するスポーツクラブって、ダイバーズ・ライセンスを取ったばかりの人のために、けっこう頻繁に、海に潜るチャンスを作ってくれるんだよ。
夏、合宿ときたら、やっぱり夜は怪談じゃん。

ちょうど、今の私たちみたいに、数人で寄り集まって盛り上がってたんだ。
だから、先輩の話を聞いてたのも、私一人じゃなかった。
それで、話を聞きながら、その場にいた誰かが、物騒なことを口にしちゃったのさ。

「俺もそう思う」
って、誰かが賛成すると、
「そんな奴が生きてるなんて、許せないよな」
って、もう大変な騒ぎになっちゃって……。
みんな、お酒が入ってたから、完全に酔った勢いってやつだったけどさぁ。

井上先輩だけは、一人、じっと押し黙ったままだったよ。
何を考えてたか……。
案の定、みんな酔っ払ってた時のことなんか、翌日の朝にはさっぱり覚えてなかったし、私も、これといって追及しなかったし……。

『おいしい話には、罠がある』
ぐらいの教訓めいた感じだけを残して、先輩の話は、みんなの心の片隅に追いやられてったのさ。
……私が先輩から聞いた話は、これで終わりなんだけどさぁ。
1.じゃあ、次の話へ行きましょうか?
2.えー、もっと話して欲しいな