晦−つきこもり
>三話目(藤村正美)
>A6
あら、信じられませんわ。
とてもじゃないけれど、想像の限界を超えた臭いなんですのよ。
葉子ちゃんって、想像力が豊かですわね。
それとも、ただの嘘つきかしら。
うふふ……いいでしょう。
話を続けますわ。
悪臭をかいだ武内さんは、気分が悪くなってしまったんです。
やっとのことで立っている彼の肩を、誰かが後ろから叩きました。
振り向くと、浦野先生のお姉様だったのですわ。
「何をしているの」
静かな口調でした。
それがかえって不気味で、武内さんは震えだしましたわ。
お姉様の目は細められて、まるで獲物を狙う蛇のように見えました。
「そうやって、コソコソと嗅ぎまわるなんて……最低な人ね。そんなに見たいなら、見せてあげるわ」
そうやってつかんだ爪は、まるでワイヤーロープのように、彼の腕に食い込みました。
そして、鍋の前に連れていったのですわ。
強烈な臭いに、吐き気がします。
「これはね、栄養タップリのスープなの。私たちの子供を育てるためのね」
お姉様は、ウットリとしゃべっています。
武内さんにではありません。
彼を通り越して、台所の向こうを見つめているのです。
視線をたどった彼は、そこに信じられないものを見ました。
台所から通じる板の間に、円筒形のガラスの容器。
その中には、小さな人間がいたのですわ。
赤ん坊の大きさなのに、奇妙に大人びた表情で、こちらを見ています。
「産婦人科の私と、整形外科の妹……二人で材料を持ち寄って、やっとあの子を造り上げたのよ。
私たちの、自慢の息子なの」
夢見るような声に、武内さんはゾッと鳥肌を立てました。
現実の世界に生きる人間の声とは、思えなかったからです。
それに、あのガラスの中の、大人か子供かわからない不気味な生き物……。
クツクツと煮える鍋の音が、妙に耳に障ります。
ハッと気づくと、お姉様が鍋の中身をすくい上げていました。
悪臭が強くなったようです。
「あんたは、私たちとこの子を引き離す気ね。わかってるわ……でも、そんなことさせない!」
煮えたぎるスープが、武内さんに浴びせかけられました。
「ぎゃっ!」
とっさに顔をかばった腕が、ジュッと火傷します。
このままでは殺される!
そう悟った武内さんは、お姉様を力任せに突き飛ばしたのです。
鍋に抱きつくようにして、お姉様は倒れました。
そして、スープを頭からかぶってしまったのです。
もうもうと湯気が上がり、ものすごい異臭が立ちこめました。
美しかったお姉様の顔は焼けただれ、見る見るうちに皮膚が縮れていきます。
引っ張られて破けた皮の下には、ヌラヌラと光る筋肉が。
それも、やけどで血よりも赤い色に染まっているのです。
彼は一瞬、気が遠くなりかかりました。
けれど、ここで倒れるわけにはいきません。
武内さんは椅子を振り上げ、円筒形のガラスに叩きつけました。
粉々になったガラスとともに、床に投げ出された生き物は、見る見るうちに溶けていきます。
人間そっくりな生き物が、どろどろに溶けていくなんて……気味の悪い眺めだったでしょうね。
それを見届けると、武内さんは出ていったんですの。
そして、それっきり姿を消したのですわ。
同じ時期に、浦野先生のお姉様の遺体が、発見されました。
けれど、あの小さな生き物の手がかりは、何一つ残さず消えていたのです。
いつの間にか、浦野先生も姿を消していましたしね。
だから、武内さんが今、どこで何をしているのかは、わからないんですの。
浦野先生から逃げているのかもしれないし、もう捕まって殺されているかもしれない。
何となく、もう一生姿を現さないんじゃないか……と思いますわ。
そうそう、お姉様の遺体が発見されたとき、残っていた鍋の中身が分析されたんですって。
でも、警察は発表を控えたんですわ。
それがなぜか、わかりますか?
1.わかる
2.わからない