晦−つきこもり
>三話目(藤村正美)
>C6

そうでしょうとも。
実際にかがなければ、到底理解できない臭いなんですもの。
そんな悪臭をかいだ武内さんは、立ちくらみを起こしてしまったんですわ。
あわてて手をかけた場所が、運悪く開きかけたドアでしたの。

彼は支えをなくして、台所の床に転げ込みました。
「誰っ!?」
鋭い声とともに振り向いたのは、浦野先生のお姉様だったんです。
眉のつり上がった、とても怖い顔。

鍋をかき回しているせいか、まるで魔女のように見えたそうですわ。
「武内さん……見てしまいましたね、この鍋を」
「ど、どういう……」
意味ですか、といいかけた武内さんの頭に、ガツッと重い衝撃。

不意をつかれて、彼はあっけなく、気を失ってしまいましたの。
再び気がついたとき、まわりは真っ暗でした。
自分が目を開けているのか、それとも閉じているのかもわからない、真の闇の中。
顔の前で手を振っても、見えないんですのよ。

幸い、縛られたりはしていないようです。
武内さんは、そろそろと立ち上がりました。
すり足で進むと、じきに壁に突き当たります。
どうやら、真っ暗な部屋に押し込められているらしいのですわ。

それにしたって、ドアや窓の一つくらい、あってもよさそうなものですわよね。
けれど、それらしいものはありません。
さすがの武内さんも、非常事態だと気づいたんですわ。
「た、助けてくれぇっ! 誰かーっ」

悲鳴に応えるように、天井の一部が開きました。
そこから、誰かが覗くじゃありませんか。
「助けてください! お願いですっ!」
武内さんは、必死に叫びました。

「そうはいかないわ……」
武内さんは息を呑みました。
答えた声が、冷酷に響いたからではありません。
聞き覚えがあったからです。
その声は、彼があこがれ、愛している……。
そう、浦野先生だったのですわ。

どうして、先生がこんなことをするのでしょう。
武内さんには、理解できませんでした。
「先生、浦野先生ですよね!
どうして、こんなことをっ!?」
「私たちの、秘密の鍋を見てしまったからよ」

天窓から、もう一人の人影が覗きました。
こちらの声にも、聞き覚えがあります。
浦野先生のお姉様ですわ。
「鍋って、何のことですか! 僕は知りませんよ!」
「いいえ、あなたは見たわ。台所の、あの鍋を」

ここまでいわれれば、さすがに察しがつきますわ。
「台所で煮ていた、あのずんどう鍋のことですか!?」
「ほら、知っているじゃないの。
あれを見られたからには、生かしておくわけにはいかないの」
聞いたこともないような、冷たい先生の声。

「あれは、私たちの秘密の美容液。私の患者が、みんな美人になるのは、あの美容液を使っているからよ。手術後に毎日つければ、包帯が取れるまでには美しくなれるの」
「その製法を、知られるわけにはいかないの。あなたは、ここで死ぬのよ」

武内さんは、勢いよく首を振りましたわ。
「見てません。知りません! 知ってても、先生を裏切るようなことはしません!」
……でも、浦野先生は身動きもしませんでした。
「他人なんか信じない。あなたはここで、美容液の材料と一緒に、死になさい」

冷静な言葉と同時に、武内さんの足の下の、床がなくなりました。
彼は、床に開いた大穴に、飲み込まれてしまったのです。
一瞬、死を覚悟しました。
けれど彼は、固い床に叩きつけられる代わりに、なま暖かい液体に飛び込んだのです。

大きく水しぶきが上がりました。
深く沈んだ武内さんは、手足をバタつかせて浮き上がりました。
はるか上の方に、ボンヤリと明るい天窓の明かりが見えます。
彼は大声で叫ぼうと、胸一杯空気を吸い込みました。

その途端、猛烈な吐き気に襲われたのですわ。
穴の底の空気が、あまりにも生臭かったからです。
せき込む武内さんの頭の上から、残酷な笑い声が降ってきました。
「コソコソと嗅ぎまわるような男には、お似合いの場所だわ。そこで、お友達と仲良くするのね!」

お友達……?
そのとき武内さんは、自分と一緒に液体に浮かんでいる物があることに、気づいたんですわ。
手を伸ばしてみると、ぬるっとした感覚。
それも、全身の毛が逆立つような、おぞましい感じなのですわ。

「こ、これはいったい……?」
上から差し込む、わずかな光に目を凝らしてみました。
そこに見えた物は……。
小さな頭。
水面から突き出され、何かをつかもうとするような、動かない細い腕。

半開きのまぶたは落ちくぼんで、暗い穴になっています。
粘液にまみれた小さな口は、何かを叫ぶように開かれたままです。
武内さんは絶叫しました。
深い穴の中に、悲鳴が反響します。

どんな金属を使っているのでしょう。
悲鳴は反響を繰り返すたびに、その音質を変えて…………まるで、赤ん坊が泣き叫んでいるようにも聞こえるのです。
近くの『それ』を押しやっても、その二倍三倍もの量が押し寄せてくるのですわ。

それだけならまだしも、彼が手足をバタバタさせると、液体がかき回されるからでしょうね。
時折、目の前にぷかりと、別の『モノ』が浮かび上がってくるのです。
武内さんは、切れ切れに悲鳴をあげ続けていました。

もう、正気なのかもわかりません。
「乱暴にしないでちょうだい。その材料がなければ、うちの特製美容液は作れないのよ」
武内さんのパニックとは対照的に、浦野先生の声は冷静でした。
「姉さんが、仕事がら手に入れた、魔法の材料なの。私たちが有効に使ってあげた方が、闇に葬られるよりは嬉しいはずよ」

……そうだったのです。
浦野先生の秘密とは、手術後につける特製美容液。
そして美容液の材料は、産婦人科をしているお姉様が手に入れた……。

「もう一つ、教えてあげましょうか。彼女を姉だといったけど、あれは嘘なの。本当はね、私の母なのよ。美容液の効果は、ものすごいでしょう?」
勝ち誇ったような先生の声は、武内さんには届いていなかったでしょう。

口からよだれを垂らし、ほうけた表情の彼は、もう別の世界に行ってしまっていたのですから。
「さあ、行きましょうか。仲間もいることだし、彼も寂しくないでしょう」

その声とともに、天窓が閉まりました。
武内さんは、闇の中に取り残されてしまったのですわ。
彼が、そのことを自覚していたかどうかは、怪しいところだと思いますけれど。
ある意味で、幸せだったかもしれませんわね。

もしも、息絶える最期の瞬間まで、正気を保っていたら……と思うと。
生臭い暗闇と、ぬめりつく液体、そして哀れな美容液の材料たち。
……私には、絶対に耐えられませんわ。

葉子ちゃんも、そう思うでしょう?
1.もちろん、そうだ
2.私は大丈夫