晦−つきこもり
>三話目(藤村正美)
>F5
そうですわね。
のんびり屋の人は、ある意味、他人をホッとさせますわね。
けれど、その同じ性格を見て、カーッとなってしまう人もいるんですわ。
どういう意味かって?
実は、彼は薬ビンを見つけた後、しまい忘れてしまったんですの。
オフィスに戻った浦野先生は、机の上の薬ビンを見て、顔をひきつらせました。
さすがの武内さんも、あわててそれをしまったんですわ。
そこで、おかしいと気づけばよかったんです。
でも、彼は先生を愛していたんですわね。
それでも、しばらくは平穏な日々が続いたんです。
そんなある日のこと、彼はまたしても、ファイルをしまい忘れたのです。
ムッと黙り込む先生に、武内さんは何度も頭を下げました。
けれど、先生は答えないまま、オフィスから出ていってしまったのです。
吐き捨てるように、『二回』といい残して。
武内さんは反省しましたわ。
愛しい先生を怒らせてしまった。
もう二度と、忘れ物をしてはいけない。
そう、心に誓ったのですわ。
……でも、性格なんて、そんなに簡単に変わるものではありませんわよ。
今度は、台ふきんのしまい忘れでした。
それを見つけた瞬間、先生はペンスタンドから、万年筆を取り上げました。
そして、目にも留まらぬスピードで、それを武内さんの腕に突き立てたのです。
「これで三度目! 何度いってもわからない人ね。こうして、体で覚えなさい!」
鋭い声が、ムチのように武内さんを叩きました。
彼の胸は高鳴りました。
愛しい人の怒りは、刺された腕の痛みとともに、彼の心に響いたのです。
奇妙な心の動きでした。
それから、武内さんは先生に叱られるのが、楽しみになってきたのですわ。
浦野先生も、彼を叱ることでストレスを発散しているようでした。
端から見たら、変な関係だったでしょうね。
けれど、そんな関係が長く続くはずは、なかったのです。
だんだん増える怪我に、武内さんの家族が不審に思い始めました。
そして、浦野先生の元に行くことを、禁じてしまったのです。
武内さんは、落ち着かない毎日を過ごしました。
先生に会いたい。
会って叱られたい。
頭に浮かぶのは、ただそのことばかり。
とりつかれたように考え続けていたのです。
二週間も経ったでしょうか。
我慢できなくなった武内さんは、とうとう家を抜け出したのです。
浦野医院に行くと、休診の札がかかっていました。
合い鍵で入ってみると、中は荒れ放題に荒れていたのです。
まるで、泥棒にでも入られたようでした。
武内さんはまっすぐに、資料室に行きました。
案の定、浦野先生はそこにいたのです。
「先生!」
武内さんは、先生に駆け寄りました。
「僕、逃げてきたんです。先生に怒られないと、生きていけない体になってしまったんです!」
「武内君……」
浦野先生は、少しやつれたようでした。
自分に会いたくて、こんなに痩せてしまったんだと思うと、武内さんは幸せな気分になりましたわ。
「私も、あなたを怒らないと、イライラがおさまらないの。むしゃくしゃして、眠れないのよ」
「怒ってください、先生。家族が、僕を連れ戻しに来る前に」
先生は、はっと目を見開きました。
「連れ戻させない。あなたは、私のものよ」
熱に浮かされたような先生の声を、武内さんは幸せそうに聞いていました。
考えようによっては、最上の愛の言葉ですものね。
彼の微笑みは、ナイフを胸に突き立てられた瞬間も、変わらなかったのですわ。
しばらくして、武内さんの家族の方が、駆けつけました。
そこで見たものは、真っ赤に染まった床だったのです。
その上に座り込んで、武内さんの体を抱え込んでいるのは浦野先生。
彼の体は切り裂かれて、裂け目から内臓が引きずり出されていたんですって。
そして先生は、真っ赤な腸を握りしめて眠っていたそうですわ。
赤ん坊のように親指をしゃぶって、健やかな寝顔でね。
武内さんの遺体は、にっこりと微笑んでいたそうですわ。
切り刻まれたときは、相当痛かったはずなのに。
一点の曇りもない、晴れやかな笑顔で死んでいたんですわ。
理解しにくいですけれど、二人とも幸せだったんですわね。
こういう愛もあるのかしら。
1.あるんじゃないかな
2.そんなの変だ