晦−つきこもり
>一話目(藤村正美)
>J2

まあ、そうですの。
それでは、あの気持ちはわかりませんわねえ。
座りが悪いような、落ち着かないような、妙な気持ちなんですわ。
ところで、私がそのとき見た風景なんですけれどね。

針金でグルグル巻きにされて、中が見えないようになった古井戸でした。
そのまわりは、古びてはいるけれど、りっぱな庭なんです。
もちろん、私には、そんな庭を見た記憶はありません。
それなのに、ハッキリと見えたんです。

あれは、ただの想像の産物なんて物じゃありませんわ。
あんまり不思議なので、つい口に出して、いってしまいました。
「中山さんは、井戸と何か関係があるのでしょうか?」
すると、柔和だった中山さんの顔色が、サッと変わったんです。
目をギラギラさせて、青黒い顔色で……。

それまでの、優しくて上品な老婦人という印象が消えて、妖怪じみて見えました。
怖くなって、私は思わず、部屋を飛び出してしまいましたわ。
その夕方、婦長から呼ばれました。
昼間のことで叱られると覚悟していたのに、婦長は意外なことを、おっしゃるんです。

「中山さんからの伝言で、昼間は済まなかった……ですって。イライラしていて、あなたにきつく当たったんですってね。かわいそうに、しょげてらしたわ」
私は驚きましたわ。
彼女が謝ってくるなんて、考えてもみなかったんですもの。

「中山さんのところへ、行っておあげなさい。気にしていたわよ」
婦長の言葉に、ついうなずいたのも、驚いていたせいかもしれませんわね。
それに、どんな理由でも、病人を放って飛び出した私も悪いのです。
中山さんは、何事もなかったように迎えてくれました。

「ごめんなさいね、驚かせてしまって。私の家には、本当に古井戸があるものだから」
私はびっくりしました。
彼女の家にある井戸が、私に見えたのでしょうか?
確かに私は、他人とは違うと思っていましたわ。
でも、そんな能力があるなんて。

「嘘だと思うなら、今度うちへ行ってごらんよ。私がいないから、庭は荒れているだろうけど、古井戸があるのは見えるはずさ」
「その古井戸は、封印されているんですの?」
私は、あのとき頭に浮かんだ情景を思い出して、尋ねました。

「ああ、あの井戸には、底に黄金が眠るといういい伝えがあってね。みんなが覗き込んで危ないから、フタをしてしまったのさ」
中山さんは、にこにこして答えてくださいました。
もちろん、行くつもりはありませんでしたわ。
ただ、何気なく同期の高野さんに、その話をしたんです。

高野さんったら、とても興味を持ったようでしたわ。
その家に行ってみようなんて、いうんですのよ。
いくら許可されても、主人のいない家に行くなんて、非常識ですわよね。
でも高野さんは、しつこく私を誘うんです。

あまりしつこいので、とうとう最後には「行く」
と答えてしまったんですの。
勤務が終わった後、引き継ぎや何かがあって、病院を出たのは夕方でしたわ。
私と高野さんは、その足で、教えられた住所を訪ねました。
大きな純和風のお屋敷でしたわ。

教えられたとおり、裏の木戸から入ると、目の前に井戸があったんです。
フタをした上に、針金でグルグルと巻かれて、中が見えないようになっています。
私の頭に浮かんだ光景と、まったく同じでしたわ。
不思議な気持ちでした。

これが、話に聞くデジャヴ……というものかと思いましたわ。
デジャヴって、ご存じかしら。
初めて見る景色なのに、なぜか前にも来たような懐かしさを感じることですのよ。
私は懐かしさよりも、不気味な感じを受けましたけれど。

私が立ち止まると、高野さんはさっさと井戸の横に行ってしまいました。
そして、針金をばりばりと、はがし始めるじゃありませんか。
「何をするんですか、高野さん。
ここは、人のお宅ですのよ!」
でも、高野さんは手を止めようとしません。

「どうせ留守だもの、構うことないわ。この中に、黄金が隠されてるんでしょ」
「そんなことはいってません。そういう噂があっただけです」
「火のないところに、煙は立たないのよ!」
そういう間にも、高野さんは作業を続けています。

もう、あらかた針金は外されて、残るは重い木製のフタだけです。
「ねえ、ちょっと手伝ってよ。
私一人じゃ、こんな重い物、持ち上げられないわ」
私は、キッパリと断りました。

「あっそ、それならいいわ。でも、黄金を見つけても分けてあげないから」
それでも、手伝ったりはしませんでした。
いくら私がお人好しでも、そこまでする必要はありませんものね。
意地っぱりな高野さんは、一人で重いフタをずらし始めました。

そして、五センチばかりの隙間を作ったとき。
「あったわ! 今、底の方でキラッと光った!」
高野さんは叫んで、熱心にフタを引っぱるんです。
人間の欲って、恐ろしいですわね。
何かあるとわかった途端、今までの二倍三倍もの力が出るんですもの。

あっという間に、隙間は二十センチくらいまで広がりました。
その暗がりの中に、確かにキラキラと光る物が見えるじゃありませんか。
噂は本当だったのかもしれない。
そのときになって、初めて思いましたわ。

……話は変わるけれど、葉子ちゃん?
あなた、この日本に生まれたことを、幸せだと思っていて?
1.別に思わない
2.幸せだと思う