晦−つきこもり
>一話目(前田良夫)
>B5

へえ、そうなんだ。
俺は好きなんだよな。
子猫なんか可愛くって、口の中に入れたくなっちゃうよ。
あ、もちろん頭半分っていうか、顔がやっと入るくらいだけどさ。
口に顔を入れると、嫌がって前足で押してくるんだよな。
そのときの、肉球の感触が、たまんないの。

口の中に毛が残るのが、ちょっと難点だけどな。
だから、俺はドアを開けたんだ。
猫がいたら、布団の中に連れて帰ろうと思ったんだ。
軽くきしみながら、ドアがゆっくりと開いた。
中には、何もいなかった。

じゃあ、あの音は何だったんだ?
鳥肌がたった。
とにかく用を済まして、便所を出たんだ。
ドアを閉めた瞬間。
……また同じ音がした。
何の音なんだ?

中には、そんな音をさせそうなものは、何もなかったはずだ。
それなのに、今のは……。
俺が立ち尽くしていると、今度はドアを引っかくような音がするんだ。
この中には、やっぱり何かいる!

俺はドアに背を向けて、駆け出そうとした。
でも、いつの間にか後ろに立ってた誰かに、ぶつかっちまったんだ。
怖くて、一瞬で口の中が、砂漠みたいに乾いたぜ。
悲鳴をあげる直前、相手が誰かわかったんだ。

立川だったんだよ。
「何だ、おまえも便所かよ」
俺は笑いかけた。
でも、奴は何の反応もしないんだ。
「何だよ、おい。寝ぼけてんのか?」
肩を揺する俺を押しのけて、立川は便所のドアの前に立った。
そして、サッとドアを開けたんだ。

そこには、髪の長い女が立っていた。
写真に写った女にそっくりだったけど、もっと怖かった。
青い顔にバサバサの髪を垂らして、白目をむいている。
白かったはずの着物は、血や泥でどろどろだ。
息が止まるかと思った。

でも立川は、平然と立っているんだ。
女が見えないか、それとも夢うつつなのかもしれない。
やつれた手が、ボーッとした立川の肩に掛かった。
と、思う間もなく、女は立川の首に噛みついたんだ!

肉を食いちぎった女は、血まみれの口でニヤリと笑った。
噛みもしないで肉片を飲み込むと、ガツガツと立川の体をかじるんだよ。
なのに、立川は悲鳴一つあげない。
俺は怖くなって、逃げ出したんだ。

とにかく部屋に戻ろう。
友達を起こして、家の人に知らせなくちゃ!
足元がフワフワして、うまく走れない。
部屋までの廊下が、まるで何百メートルもあるように思えたぜ。

やっと、見覚えのある、半開きの障子までたどり着いた。
飛び込んで、眠っている小坂を揺すった。
「小坂、起きろ! 大変なんだよ!」
叫んでも叩いても、奴はピクリとも動かない。
そのとき、障子がコトリと鳴った。

振り向くと、さっきの女が部屋を覗き込んでいたんだ!
真っ赤なくちびるは、立川の血をすすったからなんだろう。
奴を食い終わって、今度は俺を狙ってるのか!?
俺は、あわてて夏布団に潜り込んだ。
そんなことくらいで、隠れられるわけないのにな。

でも、とにかく頭まで布団をかぶったんだ。
ムッと蒸し暑い空気が、全身を包んだ。
それなのに、体は冷たいままなんだ。
どうか食わないでくれ。
どうか見逃してくれ。
必死で祈ったよ。

…………不意に、冷たい風が頬をなでた。
なんだ?
体をずらして、風が吹いてきた方向を見ると……。
シーツと布団のわずかな隙間に、こっちを覗く女の顔!

…………それから後のことは、覚えていないんだ。
格好悪いけど、気絶したみたいなんだよな。
次に目を覚ましたときは、朝だった。
驚いたことに、隣りには立川が眠ってたんだ。

寝息をたてていたけど、パジャマの襟から覗く首に、赤いあざが見えた。
歯形のような形のあざだった。
俺が見つめている間に、どんどん薄れて、消えちまったけどな。
「ううーん……」
うなって、立川が目を覚ました。
奴はやっぱり、何にも覚えてなかったぜ。

それから、みんなも起きてきた。
夜中にあったことなんか、誰も知らなかった。
「わらし様なんて、出なかったぞ」
「やっぱり、気のせいなんじゃないの?」
……そんなことをいいあってたっけ。

結局、わらし様のことを調べようって計画は、お流れになったんだ。
だけど俺は、あの夜見た女が忘れられなかった。
図書館まで行って、調べてみたよ。
そうしたら、わらし様って、俺たちが思ってたようなもんじゃなかったんだ。

もっと、ずっと……意外なもんだったんだよ。
わらし様の正体、聞きたいか?
いっとくけど、すごく嫌な話だぜ。
それでも聞く勇気があるか?
1.聞く
2.聞かない