晦−つきこもり
>五話目(藤村正美)
>B10

そんなことをしても、無駄ですわよ。
だって、森の中の一軒家なんですもの。
どんなに大きな声を出したって、他の人に聞こえるわけありませんわ。
けれど、彼女も同じことをしましたの。

「助けてーーっ! 誰か来てーーーーっ!!」
恭介さんは笑いました。
「無駄ですよ。どうせ、聞こえるわけ……」
そのとき、激しくドアが叩かれました。
「やめて、兄さん! もう、そんなことしないで!!」
更紗ちゃんの声です。

「駄目だ、更紗! 新しいのを用意しなくちゃ、もう長くは保たないだろう!?」
「兄さん、やめて! もういいの!」
悲しげな更紗ちゃんの声を振り切るように、恭介さんは頭を振りました。

「手術を続行する!!」
そういって、再び彼女にメスを入れようとしたときです。
激しい音ともに、更紗ちゃんが飛び込んできました。
手には、果物ナイフが握られています。
恭介さんが、驚いた顔で振り返りました。

「更紗、まさか……!」
更紗ちゃんは、体ごとぶつかるようにして、恭介さんにナイフを突き立てました。
彼は、信じられないという顔で、妹を見ています。

「そんな……馬鹿な……おまえのため……に……っ」
「ごめんなさい、兄さん。私はもう、誰かを犠牲にして生きてくのは嫌なの」
「さら……さ……」
倒れた兄を見下ろす、更紗ちゃんの頬には、涙が光っていたそうですわ。

それから更紗ちゃんは、メスで彼女を縛っていたロープを切りました。
「さあ、逃げて。来た道は覚えてるでしょ!?」
「でも、あなたは……」
いいかけた言葉が、ハッと途切れました。

更紗ちゃんの、陶器のようになめらかな頬が、その瞬間、不気味にゆがんで垂れ下がったのです。
ジワジワと、金属が錆に冒されるように、白い肌にドス黒い染みが広がります。
それが見る間に、五つ、六つと増えていくのですわ。

「更紗ちゃん……それは?」
更紗ちゃんは、ハッと両手で顔を押えました。
その手の甲も、同じようにたるみ、しわと染みで覆われているのです。
「見ないで!」
そう叫ぶと、更紗ちゃんは部屋から飛び出しました。

そして、厚いカーテンを思いきり引いたのです。
夜明けの光が、暗かった部屋に差し込みました。
そして。
更紗ちゃんは長い悲鳴を残して、倒れてしまったのですわ。
駆け寄ったときには、もう息をしていなかったのですって。

彼女が見ているうちに、更紗ちゃんの体はしなび、たるんだ皮膚に覆われたグロテスクな生き物に変化していきました。
それとともに、何かが腐ったような、甘いにおいが立ちこめます。

茶色い液体をジュウタンに染み込ませながら、更紗ちゃんだったものは七、八十センチほどの塊になってしまったのですって。
残された彼女には、何が起きたのかさえも、わかりませんでした。

ただ、屋敷を出る前に、一つだけ見つけた物がありましたの。
何だと思います?
1.恭介の日記
2.更紗の日記
3.現金入りの金庫