晦−つきこもり
>六話目(藤村正美)
>O8

正美おばさんは、にっこり微笑んだ。

そうでしょう。
それでこそ、葉子ちゃんですわ。
本当は、戸部さんのことが気になるのですわよね。
それなら、話してあげましょう。

戸部さんは、しばらくの間ウトウトしていました。
でも、何かが気になって、眠り込むことができないのです。
うなじがチリチリするような、空気が急に重量を増したような、そんな感じがします。
まさか……。

戸部さんは、重いまぶたを無理矢理開けて、部屋の隅を見ました。
ボウッと暗闇に浮かび上がる、白い看護婦の制服…………。
暗くて目鼻立ちもわからないのに、耳まで裂けた真っ赤な口だけは見えるのです。

戸部さんのマヒしたのどから、引き裂くような悲鳴がほとばしりました。
看護婦は大きく裂けた口で笑いながら、彼に近づこうとしています。
スカートも揺れないのに、まるで滑るように、こっちに向かってくるのです。
スカート……?

ハッと息を飲んだ戸部さんは、スカートの下に黒い闇しかないことに、気づきました。
看護婦の下半身は、徐々に空間に溶け込んで、消えていたのです。
「ああーーーーっ!」
恐怖の悲鳴をあげ、戸部さんは気を失いました。

「……さん! 戸部さん!」
気づいたときには、佐原さんが顔をのぞき込んでいました。
「大丈夫ですか? ものすごい悲鳴でしたよ」
「あ……」
助けを求めようとした戸部さんの言葉が、途中で凍りつきました。
舌が動かないのです。

声が出ないのです。
薬の効果でしょうか、それとも、あの看護婦が何かしたのでしょうか。
くちびるを震わせるだけの戸部さんに、佐原さんは微笑みました。

「心配ありませんよ。予想以上に、事故のショックが大きかっただけです。ゆっくり眠れば、明日には何ともありませんから」
違う、そうじゃない。
この病室が怖いんだ、ここから出してくれ!
戸部さんは、何とか声をあげようとしました。

せめてジェスチャーで……と思っても、指先さえも動かないのです。
このままでは、また一人で置き去りにされてしまいます。
そう考えただけで、細い戸部さんの目に、涙が浮かびました。

「いいんですよ、泣いても。ケガや病気のときは、誰だって心細くなるものですわ」
佐原さんは、聖母のように優しく微笑んでいます。
戸部さんの状態がおかしいのはわかっても、何が原因かわからないのですわ。

「ずっといてあげたいけど、今日はご存じのように、ケガした方が大勢いるんですわ。何かあると困るので、もう戻らなくては」
すまなそうに、佐原さんはいいました。
戸部さんは一人になるのが怖かったのです。

でも、声も出せない彼に、どうやってそれを伝えられるでしょう。
佐原さんは出て行ってしまいました。
一人残された戸部さんは、悲鳴をあげることも、逃げることもできず、暗闇の中に置き去りにされたのですわ。

そして、それを待っていたかのように、ベッドの横にボウッと看護婦が現れたのです。
さっきよりも、明らかに近づいています。
もう、ほんの数歩で、手が届きそうです。

これほど近ければ、顔だって見えるはずなのに、相変わらず赤い口以外は、塗りつぶされたように真っ暗で見えないのですわ。
戸部さんは、呆然と彼女を見つめていました。
耳の奥が、どくどくと激しく脈打ちます。

ゆっくりと、赤い口の看護婦は近づいてきました。
二歩、三歩…………。
そして、今にも触れてしまいそうなほど、近くに……。
「く、来るな……っ」
全ての力を振り絞り、戸部さんは太い腕を振りました。
その衝撃で、看護婦は吹っ飛びましたわ。

その拍子に、彼女の首はぶらんと揺れて、落ちてしまったのです。
ぐしゃっと嫌な音をさせて床に落ちた頭から、細長い木の枝のようなものが伸びました。
それは、頭の両側に五本くらいずつ並んで生え、頭部をしっかりと支えているのです。

その姿はまるで、大きなクモのように見えました。
首グモは、ベッドの上に素早く這い登ったのですわ。
近くで見るその顔には、真っ赤な口の他に、底知れぬ深い穴のような目が五つ、並んでついていたのです!

その目が、恐怖に見開かれた戸部さんの目を、じっとのぞき込みました。
「ーーーーーーッ!!」
叫ぼうと、大きく開かれた口に、素早く木の枝のような足が突っ込まれました。
戸部さんの悲鳴は、押し込められてしまったのです。

ニタニタ笑う、真っ赤に裂けた口のまわりに垂れていた髪の毛が、ザワッとうごめきました。
髪の毛は、それ自体意志を持った生き物のように、宙をのたくりながら戸部さんに近づいたのです。
そして、ぷつぷつと顔の皮膚に刺さり、深く潜り込むじゃありませんか。

あっという間に、戸部さんの顔は首グモの髪の毛に覆われて、見えなくなってしまいました。
…………次の日、変わり果てた戸部さんが発見されました。
いいえ、初めは彼だとは、わからなかったのです。
指紋を調べて、間違いないと判断されたのですわ。

なぜって……戸部さんの顔は、皮膚もその下の筋肉も、半分以上溶けていたんですもの。
解剖の結果、もっと不可解なことがわかりましたわ。
戸部さんの頭蓋骨は、空っぽだったのです。
脳髄……つまり、脳味噌がなくなっていたのですわ。

どんな奇病なのか、医師たちにもわかりませんでした。
そしてもう一つ、溶け残った筋肉に残されていた、無数の小さな穴の謎もね。
……こうして、またしても『死を招くベッド』のジンクスは、立証されてしまったのです。
でも……不思議ですわよね。

ベッドのたたりなら、みんな同じ死因でもいいはずですのに。
なぜ、みんながみんな、違う亡くなり方をするのでしょう?
もしかしたら、全て別のものの仕業なのかもしれません。
それとも……いいえ、私にはわかりません。
きっと、誰にもわからないと思いますわ……。

正美おばさんは、そういったきり、黙り込んだ。
私は、我慢できなくて聞いてみた。
「待って、正美おばさん。そんな事件を、どうしておばさんが知ってるの? だって、戸部さんって死んでるんでしょ……」
おばさんは、にこりと笑った。

「だって……私は、死者と話ができるんですもの。今の話も、死んだ戸部さん本人から聞いたのですわ」
…………え?
どういう意味だろう。
何かの冗談なの?
でも、おばさんの表情は、嘘をいっているようには見えない。

もしかしたら、本当のことをいっているのかしら。
正美おばさんは、本当に死者の声が聞けるの?
1.信じる
2.信じない


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2.信じない